今回は、官兵衛が関わった最後の城である福岡城に残る櫓(やぐら)などを紹介します。 福岡城は初代藩主・黒田長政が、官兵衛と相談の上築いた城で、その内郭(うちくるわ)が総面積約42ヘクタール、高石垣の延長約3.4キロ、47以上の櫓を配置した西日本有数の城です。石垣は大部分が残り、城の平面形がほぼ当初の姿で残る数少ない城です。 福岡出身で明治憲法起草に関わった金子堅太郎は、その著書で「藩校修猷館に通学する途次、常に『上の橋』『下の橋』『追廻し』の城門を出入りし、本丸を迂回して、はるかに天守台、武器櫓、太鼓櫓、潮見櫓を望み、(後略)」と述べており、幕末のころの福岡城の姿を知ることができます。その後、福岡城は旧日本陸軍の所管となり、城内の建物は解体されたり、払い下げられたりした結果、現在、城内には四つの櫓などが残るのみです。 ・多聞櫓(たもんやぐら) 城の南西方面からの防備強化のために建てられた櫓で、江戸時代の姿をとどめている唯一の建物です。南丸とも呼ばれる郭の西側に建ち、北西隅と南西隅の2階櫓をつなぐ総延長72メートルの平櫓です。西平櫓とも呼ばれました。櫓は16の小部屋に分かれ、各部屋には侵入した敵の攻撃に備えるための「鉄砲狭間」や「石落とし」などを設けています。軒先を「方杖(ほうづえ)」で支え、壁が「下見板張り」という特色ある構造と外観を見ることができます。 ・(伝)潮見櫓(でん・しおみやぐら) 大正時代に黒田家別邸(現中央区舞鶴)へ、本丸にあった武具櫓、裏御門と共に移築され、昭和31年に現在の下之橋御門南脇に復元された2階櫓です。当時は潮見櫓と思われていましたが、崇福寺に移築されていた仏殿が潮見櫓と判明し、本丸裏御門に接して建っていた太鼓櫓の可能性が高いことから、「(伝)潮見櫓」と呼んでいます。 ・祈念櫓(きねんやぐら)本丸の北東隅に建つ2階櫓で、鬼門を守護し福岡藩、黒田家の安寧を祈願する櫓として使われました。大正時代に大正寺(北九州市八幡東区)に払い下げられ、昭和59年に大正寺で改装された姿のまま再移築しています。その後古写真が見つかり、櫓の規模は現在の倍以上の大きさで、寺院建築に見られる花頭窓(かとうまど)を設けるなど、祈念櫓の名にふさわしい外観だったことが分かりました。 ・下之橋御門(しものはしごもん)城内に通じる三つの門(上之橋御門、下之橋御門、追廻御門)のうち、江戸時代から現在まで唯一残っている門です。明治時代に1階建てに改修されました。平成12年に不審火により一部焼損しましたが、平成20年度に幕末ころの本来の姿である2階櫓門に修復しました。特に2階部分については、部材の調査や上之橋御門の古写真などを参考にしながら復元しています。 【問い合わせ先】 【官兵衛ものがたり】 << 官兵衛特集トップページへ |