平成26年のNHK大河ドラマは「軍師官兵衛(かんべえ)」に決定しました。福岡藩祖、黒田官兵衛孝高(よしたか)が主人公で主演は人気グループV6の岡田准一さん。豊臣秀吉に天下を取らせた名軍師ぶりが、どのように描かれるか今から楽しみです。 孝高は、1546年、播磨国姫路城で誕生しました。通称を官兵衛、出家して如水(じょすい)と号します。父職隆(もとたか)は御着(ごちゃく)城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職(まさもと)に仕え、姫路城を預かる家老で、孝高もその地位を引き継ぎました。戦場で常に合子形(ごうすなり)のかぶとを着けていた孝高は、「赤合子」と敵に恐れられたそうです。 1575年、中国地方を治める毛利輝元に対し、織田信長が西に勢力を広げようとするころ、孝高はいち早く主君政職に信長に味方するよう進言し、自ら使者となって岐阜城の信長を訪れます。この時、褒美として信長から与えられた刀名物「圧切長谷部(へしきりはせべ)」です。 2年後の1577年、織田軍の中国攻めが本格的に始まり秀吉が大将として派遣されました。この時、秀吉は「おまえは弟の小一郎(秀長)と同じように心安く思っている」と書いた直筆の手紙を孝高に与えています。孝高への期待の大きさが分かります。孝高は姫路城を秀吉に提供し秀吉の中国計略を助けました。 ところが、翌年、孝高を人生最大の危機が襲います。信長に謀反を起こした荒木村重に翻意を促すため有岡城(兵庫県伊丹市)に赴き、囚われの身となってしまうのです。この時、家臣たちが一致団結することを誓った起請文(きしょうもん)が今に伝えられています。幽閉は1年に及びましたが、母里太平衛(もりたへえ)らの活躍で奇跡的に救出されました。復帰後、孝高の名軍師ぶりはますます発揮されます。 1582年、信長が明智光秀に討たれた本能寺の変に際し、落胆する秀吉に天下取りを勧めます。秀吉は毛利方の備中高松城(岡山市)攻撃の真っ最中でしたが、速やかに和睦し、山崎(京都府)までの180キロを大軍と共に踏破して、見事光秀を滅ぼします。世にいう「中国大返し」です。秀吉は、ここから一挙に天下人への道を駆け上がり、1585年関白の地位に上り詰めました。 孝高は四国攻め、九州攻めで先鋒を務め、九州平定後の1587年7月、豊前国で6郡を与えられ、中津城(大分県中津市)を築きました。 秀吉の天下統一の総仕上げとなった小田原攻めでは北条氏に降伏を説得し、仲介の礼として太刀名物「日光一文字(にっこういちもんじ)」等を北条氏から贈られています。 秀吉没後、1600年関ヶ原の戦いで、息子長政は徳川家康に従い、東軍の勝利に大きく貢献しました。一方、孝高は九州にあり、西軍の諸城を攻め九州を席巻。これらの功績により、長政に筑前国が与えられました。 福岡をつくった官兵衛現在に続く孝高・長政父子の功績は、「福岡」をつくったことです。黒田家は、名島城(東区)に代えて新城を築き、先祖の故地・備前福岡(岡山県瀬戸内市)にちなんで福岡城と名付けました。孝高は、城の完成を見ずに筑前入国から3年余りで没し、崇福寺(博多区千代四丁目)に葬られました。黒田家が藩主とならなければ福岡という地名はなかったでしょう。 大河ドラマに向けて、今年1年「官兵衛孝高」の魅力と福岡のゆかりの地を紹介していきます。 【官兵衛ものがたり】 |