![]() ![]() 黒田官兵衛は豊臣秀吉の九州平定後、豊前国6郡を与えられ、1588年豊前国中津川の河口(大分県中津市)に中津城を築きました。中津城は、高松城(香川県高松市)、今治城(愛媛県今治市)と共に日本三大海城といわれています。中津市には、官兵衛を慕う各地の商人たちがつくったといわれる姫路町、古博多(ふるはかた)町などの町名が残っています。 1589年に官兵衛は家督を息子長政に譲ります。長政は、関ケ原の戦いへの貢献により、徳川家康から筑前国を与えられ、名島城に入城。名島城内の黒田家家臣の住居位置が記された絵図が現存しており、今でも三の丸や城山道などの地名が残るところもあります。石垣などの遺構が残る本丸跡は、「名島城址公園」として整備されています。小高い丘の頂にある公園からの眺望は、埋め立てやビル等により変わりましたが、立花山や志賀島の景観は当時をしのぶことができます。 長政は官兵衛と相談し「名島城は三方を海に囲まれ、戦国の乱世にはふさわしいが平和の時代には交通が便利な広い土地の方がよい」との理由で、新城地選定に取り掛かります。住吉など四つの候補地の中から、福崎の地を選び、地名を福岡に改め、築城を開始します。 黒田家譜は、築城には名島城の石垣や櫓(やぐら)等を崩して福岡城に海上移送したと伝えています。このことは「名島引け」といわれ、発掘調査でも、名島城跡から出土した瓦と同様のものが福岡城跡で出土しています。
福岡城の築城は、1601年から7年を要しました。城の東側は那珂川に通じる中堀(紺屋町堀)と佐賀藩鍋島氏の助力によって「肥前堀」を、南側は現在の南公園から福岡城の天守台まで延びていた丘陵を切断して堀を設けました。北側は干潟を埋め立て城下町を作るなど大規模な土木工事を実施し、西側は荒戸山(現西公園)から大きな入り江であった「草が江」を利用し大堀(現大濠公園)を構えました。
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