現在、桜の名所として福岡市民に親しまれている西公園、荒戸(荒津)山とその周辺の地は、官兵衛に深く関わるゆかりの地です。西公園がある荒戸山の麓(ふもと)からは、鴻臚館の時代には遣唐使船などの大陸と往来する船が発着していました。万葉集には「白妙(しろたえ)の袖の別れを難(かた)みして荒津の浜に宿りするかも」と詠まれています。 江戸時代初期には、福岡城築城と同時期に、荒戸山南西部の麓から那珂川河口までを埋め立て城下町とした他、その後は福岡藩の重要な港として整備が行われました。 江戸前期の儒学者で筑前福岡藩士の貝原益軒は、『筑前国続風土記』で「この山に上りて四方を返り見たる景色、いつも見るたびに目を驚かし、時々につけて、人の心を動かせり」と荒戸山からの眺望の素晴らしさを称賛しています。 荒戸山には官兵衛の孫に当たる第2代藩主忠之が1652年に勧請(かんじょう)した東照宮がありました。同じく『続風土記』には、「神殿・拝殿は美麗で、玉垣、瑞籬(みずがき)、神厨(みくりや)、廻廊(かいろう)を備え、石階高し」と記されています。 博多中島町のしょうゆ醸造業の家に生まれた奥村玉蘭の手による筑前国の地誌『筑前名所図会』には、境内の景観が描かれており、その壮麗さがうかがえます。ご神体であった「木造東照権現坐像」は明治の廃仏毀釈の際に東照宮が廃社となったため警固神社に移されたものです。2006年度に市文化財(彫刻)に指定されました。 福岡城本丸には、1768年に初代藩主長政を祭るために建設された聖照権現社があり、後に水鏡権現として官兵衛を合わせて祭りました。 1871年の廃藩置県で黒田家が東京に移るに当たり旧黒田家家臣をはじめとする市民から、これらの社の移転要望が高まりました。これを受けて、まず、小烏(こがらす)吉祥院跡(福岡市中央区天神付近)に移転し、1909年に、東照宮跡地に光雲(てるも)神社として移りました。社名の光雲は、官兵衛の法名である龍光院殿と長政の法名である興雲院殿から一字ずつ取ったものです。境内には黒田二十四騎の一人母里太兵衛の銅像や黒田長政が愛用した水牛のかぶとの像など、黒田家ゆかりのものがあります。 【問い合わせ先】 ・西公園(福岡市の文化財) ・警固神社(福岡市の文化財) ・黒田家別邸跡碑…豪壮な構えだった黒田家別邸(中央区みどころ情報発信館) ・光雲(てるも)神社…黒田如水と長政を祀る光雲神社(中央区みどころ情報発信館) ・母里太兵衛…民謡「黒田節」のモデルになった母里太兵衛(中央区みどころ情報発信館) ・市史こぼれ話…福岡藩の成立と黒田24騎・母里太兵衛(新修 福岡市史) ・旧母里太兵衛邸長屋門(福岡市の文化財) ・水牛の兜像…黒田長政愛用の水牛の兜(中央区みどころ情報発信館) 【官兵衛ものがたり】 << 官兵衛特集トップページへ |