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更新日: 2015年3月19日

秀吉を天下人にした天才軍師
福岡藩祖 黒田官兵衛

官兵衛と福岡城

第11回 祭られた官兵衛 NEW

現在の光雲神社の写真 明和5(1768)年8月、福岡藩6代藩主・黒田継高(つぐたか)は、福岡城の天守台下に祀堂(しどう)を建て、初代藩主・黒田長政を聖照権現(せいしょうごんげん)として祭りました。安永2(1773)年4月、この祀堂に官兵衛も水鏡(すいきょう)権現として併せて祭られました。

 明治維新後の明治4(1871)年8月、廃藩置県によって黒田家は東京に移り住むことになりましたが、この祀堂は市民から移転の要望が出されたため、小烏馬場の吉祥院(きっしょういん)跡(現在の警固神社付近)に移され、官兵衛(龍光院殿)と長政(興雲院殿)の院号から一字ずつ取り、光雲神社と名が改められました。その後、光雲神社は明治42年4月に西公園へ移され、現在に至ります。

 早いもので今年も間もなく桜の開花の季節を迎えます。桜の名所として知られる西公園を訪れ、花を愛でるとともに、今も福岡を見守る官兵衛に思いをはせてみてはいかがでしょうか。(福岡市博物館学芸課 高山英朗)

 (ふくおか市政だより3月15日号中央区版掲載)(PDF)

【関連リンク】
>> 『新修 福岡市史』より 官兵衛と長政を祭った神社の話
>> 光雲神社 中央区みどころ情報発信館
>> 博多の豆知識vol.85「桜の名所:西公園と光雲(てるも)神社」
>> 写真:西公園・光雲神社(2013) まるごと福岡・博多
>> 写真:西公園・光雲神社(2013) まるごと福岡・博多
>> 写真:西公園・光雲神社(2009) まるごと福岡・博多

第10回 官兵衛と黒田家譜

黒田家譜(福岡市博物館蔵)の写真 黒田官兵衛は、慶長9(1604)年3月20日に亡くなりましたが、彼や息子・長政の事績を後世に残す大きな役割を果たしたのは、福岡藩3代藩主・光之です。光之は寛文11(1671)年10月、黒田家の正史である「黒田家譜」の編さんを藩の儒学者・貝原益軒に命じました。益軒は翌12年に原稿を書き始め、延宝6(1678)年に書き終えて光之に献上しています。以後、益軒の希望や光之の指示によって改訂が二度行われ、宝永元(1704)年に完成しました。

 光之は編さんに当たって、益軒へ黒田家に伝来した古文書などを閲覧させています。官兵衛や長政の事績を正しく後世に伝えるため、記述内容に正確を期したものと思われます。現在に生きる私たちは、黒田家伝来の古文書・古記録や益軒が編さんした『黒田家譜』などを通して、官兵衛の生涯について知ることができるのです。(福岡市博物館学芸課 高山英朗)

 (ふくおか市政だより2月15日号中央区版掲載)(PDF)

第9回 官兵衛の辞世

黒田如水辞世和歌短冊の写真 今年1月に始まったNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は、この号が皆さんに届く頃には、間もなく大団円を迎えることと思います。
 黒田官兵衛は、慶長9(1604)年3月20日、京都・伏見の屋敷で亡くなります。数えで59歳でした。関ヶ原合戦の後、筑前に入国してわずか3年余り。この間、上方などにいた時期もあり、官兵衛が実際に福岡にいた期間は短かったと思われます。

 福岡市博物館では、官兵衛が辞世に当たり書き残した和歌の短冊を所蔵しています。「思いおく言の葉なくてついに行く 道は迷わじ なるにまかせて」と、生涯を振り返って思い残すことはない、という達観した心境を歌に詠んでいます。思う存分に自らの知略を発揮したと満足げな官兵衛の姿が目に浮かぶようです。(福岡市博物館学芸課 高山英朗)

 (ふくおか市政だより12月15日号中央区版掲載)(PDF)


第8回 名島城をしのばせる門

名島門の写真 前回紹介した旧母里太兵衛邸長屋門(県指定有形文化財)から舞鶴公園西広場へと抜ける通路に門が立っています。この門は名島門と呼ばれ福岡市の有形文化財に指定されています。名島門は名島城(東区)の脇門で、黒田官兵衛と息子・長政が福岡城に居城を移す際、黒田二十四騎の一人である林直利に与え、屋敷の門として使用されたと伝えられています。

 明治中期、長崎の骨董商がこの門を購入しようとしたところ、当時衆議院議員であった平岡浩太郎氏が買い戻して天神の自宅の門として使用し、現在地には昭和36(1961)年7月に移築されました。黒田家の菩提寺である崇福寺(博多区千代)の境内にある唐門(県指定有形文化財)や、宗生寺(宗像市大穂)の山門(名島城の搦手門(からめてもん)を移築)などと共に、名島城をしのばせる数少ない文化財です。(福岡市博物館学芸課 高山英朗)

 (ふくおか市政だより11月15日号中央区版掲載)(PDF)

【関連リンク】
名島門(中央区みどころ情報発信館)
名島門(福岡市の文化財)
名島城跡(福岡市の文化財)
崇福寺唐門(福岡市の文化財)
崇福寺山門(福岡市の文化財)


第7回 官兵衛の家臣 母里太兵衛

旧母里太兵衛邸長屋門の写真 福岡を代表する民謡「黒田節」。「酒は飲め飲め飲むならば」で始まる歌詞は皆さんもよくご存じでしょう。この歌詞は、黒田官兵衛の家臣・母里太兵衛友信<もり(ぼり)たへえとものぶ>が、酒宴の席で福島正則から名槍(めいそう)「日本号(にほんごう)」を飲み取ったエピソードを基に作られています。博多人形の題材となり、博多駅前や光雲(てるも)神社(西公園)には銅像も立っているので、「黒田武士」と言えば太兵衛をイメージする人も多いと思います。

 舞鶴公園内の牡丹(ぼたん)・芍薬(しゃくやく)園(官兵衛が晩年を過ごした御鷹屋敷(おたかやしき)跡)の側には旧母里太兵衛邸長屋門(ながやもん)(福岡県指定有形文化財)が建っています。この長屋門は、現在の福岡天神センタービル(天神二丁目)の場所にあった母里家の屋敷にあったもので、昭和27(1952)年に解体され、昭和40(1965)年に現在地に復元されたものです。「黒田節」の歌詞や博多人形などとともに、母里太兵衛をしのぶことのできる文化財です。(福岡市博物館学芸課 高山英朗)

 (ふくおか市政だより10月15日号中央区版掲載)(PDF)

【関連リンク】
民謡「黒田節」のモデルになった母里太兵衛(中央区みどころ情報発信館)
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旧母里太兵衛邸長屋門(福岡市の文化財)
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第6回 官兵衛と茶の湯

御茶堂之記(福岡市博物館蔵)の写真  黒田官兵衛は、和歌や連歌だけでなく茶の湯もたしなみ、千利休(せんのりきゅう)や津田宗及(つだそうぎゅう)ら著名な茶人とも親交を持っていました。
 戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した博多の豪商で、茶人として知られる神屋宗湛(かみやそうたん)が記した「宗湛日記」からは、筑前入国後、官兵衛が福岡城の大堀の西岸、鳥飼村に設けた二畳敷の御数寄屋(茶室)で、宗湛や息子の長政らと茶の湯を楽しんでいたことが分かります。

 また、官兵衛は慶長四(1599)年正月に千利休の茶の湯の秘伝を「御茶堂之記(ござどうのき)」(如水茶湯覚書(じょすいちゃのゆおぼえがき)、如水壁書(じょすいかべがき)とも)としてまとめています。黒田家の歴史書である「黒田家譜(くろだかふ)」によれば、官兵衛の茶堂の水屋に貼られていたもので「茶はゆっくりと滞りのないようにひくこと」など官兵衛の茶道観をうかがい知ることのできる資料です。(福岡市博物館学芸課 高山英朗)

 (ふくおか市政だより9月15日号中央区版掲載)(PDF)

第5回「福岡」という地名の由来

如水公夢想連歌(福岡市博物館蔵)の写真 現在、私たちが住む福岡市の「福岡」という地名は、もともとはこの地域を指す地名ではありませんでした。慶長5(1600)年に筑前国に入った黒田官兵衛と長政父子は、翌6年から新しい城と城下町の建設を行いました。官兵衛と長政は出来上がった城と城下町を、黒田家の先祖が住んでいたゆかりの地である備前国邑久郡(びぜんのくにおくぐん)福岡(岡山県瀬戸内市長船町)から地名をとって「福岡」と名付けたのでした。

 慶長7年正月16日、官兵衛が長政や妻の光(照福院、幸圓(しょうふくいん、こうえん))ら家族などと催した連歌会の懐紙が、太宰府天満宮と福岡市博物館に現存しています(如水公夢想連歌)。官兵衛が夢に見たというこの連歌会の発句に、「松むめ(梅)や末ながかれとみどりたつ 山よりつづく さとはふく岡」(松や梅が末長く緑であるように、山から続く福岡の里もそうであれ)とあり、このころには「福岡」という地名が使われていたことが分かります。
(福岡市博物館学芸課 高山英朗)

 (ふくおか市政だより8月15日号中央区版掲載)(PDF)

【関連リンク】
福岡という地名、もともとは岡山県の地名です(まるごと福岡博多)

第4回「官兵衛の福岡での住まい」

黒田如水公御鷹屋敷跡の碑の写真 福岡城の築城は、慶長6(1601)年に始まりました。築城の間、黒田官兵衛はどこに住んでいたのでしょうか。黒田家の歴史書である「黒田家譜(くろだかふ)」などの記述によれば、太宰府天満宮のそばに庵(いおり)を建てて、そこに住んでいたことが分かります。

 太宰府天満宮に祭られている菅原道真(すがわらのみちざね)は、学問の神様として知られ、和歌や連歌の神様としても信仰されていました。官兵衛自身も和歌や連歌をたしなんでおり、太宰府天満宮は官兵衛にとって格好の場所だったのです。

 本丸など福岡城の主要部分が完成すると、官兵衛も城内に移り住みました。福岡城下の橋御門(しものはしごもん)の南側にある小高い丘が、官兵衛の屋敷があった場所で、江戸時代は御鷹屋敷(御高屋敷)(おたかやしき)と呼ばれていました。現在は舞鶴公園内の牡丹・芍薬園(ぼたんしゃくやくえん)として市民に親しまれています。
(福岡市博物館学芸課 高山英朗)

 (ふくおか市政だより7月15日号中央区版掲載)(PDF)

【関連リンク】
福岡城下之橋御門(福岡市の文化財)
官兵衛が、隠居生活を送った「三ノ丸御鷹屋敷」は、牡丹・芍薬園内にありました。


第3回「福岡城の武具櫓」

武具櫓の写真(福岡市博物館所蔵) 慶長6(1601)年から始まった福岡城の築城で、本丸南側の石垣をどのように築くか、黒田官兵衛(孝高、如水)と息子・長政の間に意見の相違があったことは、前回記しましたが、この石垣の上に本丸を守るために武具櫓(やぐら)が建てられました。武具櫓は東西に平櫓が付属する3階櫓があり、その間を2層の多聞(たもん)櫓でつないだ大規模な櫓でした。

 この櫓には、武具櫓の名の通り、官兵衛・長政の時代から黒田家に伝来した武具や、有事の際に使用する甲冑(かっちゅう)や槍(やり)などの武具類が収められていました。

 大正5(1916)年、武具櫓は城内から浜の町(福岡市中央区)にあった黒田家の別邸へ、本丸の裏御門などと共に移築されました。その後、昭和20(1945)年6月の福岡大空襲の際に焼失してしまいましたが、明治時代に写されたと思われる写真が残されており、往時の姿を知ることができます。
(福岡市博物館学芸課 高山英朗)

 (ふくおか市政だより6月15日号中央区版掲載)(PDF)

【関連リンク】
官兵衛も見た!?福岡城武具櫓跡が100年ぶりに姿を現す!「福岡城武具櫓跡の調査(福岡市の文化財)」
黒田家別邸跡碑…豪壮な構えだった黒田家別邸(中央区みどころ情報発信館)


第2回「福岡城築城と官兵衛」

黒田長政像(市博物館所蔵) 筑前に入国した黒田長政(ながまさ)は、慶長6(1601)年から名島城(東区)に代わる新しい城の築城に取り掛かりました。すでに隠居していた長政の父・黒田官兵衛(孝高(よしたか)、如水(じょすい))も築城に深く関わっていたことが知られています。
 同年9月1日、長政が石垣普請(ふしん)の担当者であった野口一成・益田宗清(ますだ むねきよ)の2人に宛てた書状(福岡市博物館所蔵)に、築城に関する興味深い記述があります。

 この書状で長政は、本丸南側の石垣を築く位置について指示を与え、たとえ官兵衛の好みと違っていても、計画通り築くようにと命じています。計画について官兵衛と長政の間に意見の相違があったことが分かるとともに、自らの計画通りに普請を進めようとする息子・長政の姿が見て取れます。

 果たして、両者の意見の相違が解消されたかどうかは、残念ながら史料から追うことはできません。(市博物館学芸課 高山英朗)

 (ふくおか市政だより5月15日号中央区版掲載)(PDF)

【名島城】
 1588(天正15)年、豊臣秀吉により筑前を与えられた小早川隆景は、海に突き出た名島の地に居城を築いた。築城の際には、立花宗茂の旧居城立花城の部材を運んだ。海側に本丸、堀を挟んで南に二の丸を築いたが、現在の城祉には住宅が建てこめ、往時の姿は全くない。1991年、二の丸跡で初めて発掘調査が行われ、石垣や建物跡が発見され、瓦や陶磁器が出土した。
 (福岡市博物館アーカイブズより
>> 名島城跡(福岡市東区)<福岡市の文化財>
>> 名島門(福岡市中央区)<福岡市の文化財>
>> HAKATA みなとGallery 歴史・文化に触れるなら「名島城址」

【福岡城】
 関ケ原の戦の結果、1600(慶長5)年筑前を与えられた黒田長政は名島城に入城したが、城下町が狭いため、新たに那珂郡警固村の福崎に翌年から築城を始めた。縄張りは黒田二十四騎の1人野口一成がしきり、朝鮮半島の晋州城を手本にし、築城時に名島城から部材を移築した。面積約25万m2、47の櫓、西の大堀と東に伸びる堀など雄大な城だが、天守台はあるものの天守閣は作られなかったと言われている。城は完成後も石垣などがたびたび修築されている。(福岡市博物館アーカイブズより
>> 福岡城跡(福岡市中央区)<福岡市の文化財>
>> 福岡城むかし探訪館

第1回「官兵衛の筑前入国」

黒田如水(官兵衛)像 今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公・黒田官兵衛(実名は孝高(よしたか)、勘解由(かげゆ)とも称し、剃髪後に如水軒圓清(じょすいけんえんせい)などと号す)は、息子の長政が慶長5年(1600)9月の関ケ原の戦いにおける功績により筑前(現在の福岡県北西部)ほぼ一国を与えられたため、豊前国中津(大分県)から筑前国へやって来ました。入国当初、官兵衛は博多・宗湛(そうたん)町(博多区綱場(つなば)町・店屋(てんや)町・奈良屋(ならや)町)に仮の屋敷を構えて、しばらく居住していました。

 また、官兵衛と長政は、領国経営の拠点となる居城を名島城(東区)に定めましたが、城下が狭いことなどを理由に、新しい城を築くことに決めました。建設候補地は、住吉(博多区)、箱崎(東区)、荒津山(荒戸山、中央区)、福崎(中央区)の4カ所で、最終的に官兵衛と長政は福崎が最適であると判断し、慶長6から築城をはじめました。この福崎こそ現在の福岡城跡がある場所です。(市博物館学芸課 高山英朗)

 (ふくおか市政だより4月15日号中央区版掲載)(PDF)


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