福岡を「世界の工場」に! 国内有数の開発型ベンチャーBraveridgeが明かす成長の秘訣と野望とは

福岡市の郊外にありながら、全国からいろいろな人が打ち合わせにやって来る。なぜなら、卓越した技術を持ち、しかも中国より安くモノづくりができるから。無線通信技術を軸に、IoTデバイスの開発から量産まで手がける株式会社Braveridge(ブレイブリッジ)。この5月にはネット環境不要で広域通信できるBLEルーターを世界で初めて発表し、注目を集めています。なぜ中国より安くモノづくりができるのか、どうして世界初のモノやサービスを生み出せるのか…。代表・吉田剛さんの軌跡をたどっていくと、会社の紆余曲折とともに、成長の秘訣や大きな野望まで見えてきました。

Braveridge社屋.JPG

シンガポールで起業して、福岡で再スタート

―吉田さんはもともと福岡の方ですか? どんなキャリアを歩んできたのでしょう。

吉田 僕は福岡市早良区で生まれて、東京理科大学で機械工学を専攻し、九州松下電器(現・パナソニック コミュニケーションズ)に入社。鉛筆削りから掃除機、海外のコードレスフォンまで10機種ぐらい設計して、9年で退社しました。

―独立されたのですか?

吉田 いえいえ、当時の彼女(今は妻)の実家が博多の織元で、相撲の化粧まわしを作っていた。そこに丁稚奉公に入って、最初に作ったのは朝青龍さんの浴衣でした。で、しばらくすると、九州松下電器で同期だった小橋泰成から「仕事を手伝ってくれんね」と声をかけられたんです。小橋は会社員のときから技術力が抜きん出ていて、独立して、投資家のいるシンガポールで会社を立ち上げていた。設計を手伝ってほしいと言われて、日中は呉服屋さんで働き、夜は設計の仕事をしました。

―小橋さんはどんな事業をされていたのでしょう?

吉田 プレステのワイヤレスゲームコントローラーを作ってました。ソニーさんの認証をもらった世界3社のうちの1つ。シンガポールを拠点に、インドネシアで金型を作り、マレーシアで製造、本格的な量産は中国。そのうち「インドネシアで金型を起こすけん、行ってくれん?」と言われて、僕は小橋の会社に入ることに決めました。海外でモノを作るとき、日本人の技術者がいないとうまくできないんです。現地には任せられない。それで、僕は英語もできないのに平成15(2003)年にシンガポールに引っ越し、ほぼ無給で働きました。4人の会社で、僕は技術統括みたいな感じ。いやー、いろいろ大変でしたよ。

―4人の会社でソニーさんの認証をもらうというのは、すごいですね。

吉田 技術がきちんとしていれば、認めてもらえるんですよ。それから、アメリカ最大級のゲームショウ「E3」に出展したことがきっかけでセガさんに興味を持っていただき、日本で製品を出すために簡易的に作った会社がBraveridgeです。

―社名の由来は?

吉田 吉田剛の「剛 (勇敢な)」=Brave、小橋の「橋」= Bridgeを合わせました。しばらくシンガポールの会社と並行していたけど、製品づくりがうまくいかず、シンガポールの会社は閉めて帰国しました。そして、ふたりで「Braveridgeでやり直そうや」と再スタートしたのが平成18(2006)年。オフィスを借りるお金がなかったから、福岡県小郡市の九州情報大学のインキュベーションセンターに入り、できることから始めた。最初に作ったのはUSBの口がついたACアダプター。当時は1ポートしかなく、僕らは2ポートを出した。資金は30万円だけで、一度は断られた日本政策金融公庫に土下座のように頼み込んで300万円を貸してもらって。それでもカツカツでやっていく中、2年後にバッファローさん(パソコン周辺機器メーカー)にFMトランスミッタを出しませんかと持ちかけ、これが当たって国内シェア8割くらいに達し、会社に少しずつ資金を蓄えていきました。

―ふたりの再スタートがうまくいった秘訣は何でしょう?

吉田 うーん、やってきたことを振り返ると2つかな。まずは人と同じことをしないこと。そして一番大切なのは、壁にぶち当たったときに、食う食わんの世界でどれだけ死に物狂いで考えるか。考えた量に比例して、いいアイデアも出てくる。そこやないかなと思っとる。

代表・吉田剛さん

日本製に切り替えたのは、海外より安くできるから

―御社の製造品は途中から日本製にされたそうですね。

吉田 もともと中国などで作っていて、他社はみんな海外に向く中で、うちは平成20(2008)年に日本製に切り替えました。日本で作ったほうが安くできると確信したから。うちなら安くできるんです。

―一般的に人件費が安い海外がいいと言われますが、なぜ安くできるのでしょう? 自社工場だから?

吉田 いや、その頃は自社工場がなくて外部に頼んでいました。設計、材料、金型、組み立て、輸送などいろいろなマージンを減らすことで、トータルで安くできたんです。日本製というのは、企画設計と最終組み立ては日本ということ。金型に関しては中国にパートナーがいて、海外での経験や人脈を生かし、うまく交渉することで実現しています。

―自社製品も開発されていますね。

吉田 業界の先を見据えて、平成22(2010)年から自社製品も出し始めました。OEM(他社ブランドで製品を生産)やODM(他社ブランドで製品を設計・生産)はずっと続けていて、今も8割以上は受託だけど、もう少しバランスを取りたいなと。自社モノを広げるとデメリットもあるけど、どこかで超えないといけないかなと思ってます。

―吉田さんと小橋さんが目指しているのは?

吉田 シンガポールではふたりで住んで、いろんな話をしてました。僕らがずっと言ってたのは、時代がどんどん変わっていく中で、少し先を見ながら継続していけば、その時々でやりたいことが出てくるだろうと。ふたりとも「継続」を大事にしています。

―今やりたいことはありますか?

吉田 これまで受託でいろいろ作ってきたけど、実は自分が本当に欲しいものはあまりなかった。技術の会社って、今こういう技術があるからこういうモノができるという発想で作りがち。だけど、人も自分も本当に欲しいモノを作らないと継続はできない。ようやく最近、自分たちが欲しいと思えるモノができました。ひとつは、福岡市で実証実験をしているIoT向け通信ネットワーク「Fukuoka City LoRaWANTM」に関すること。福岡市を無線の規格で覆うようなイメージで、うちは実証実験に参加する機器の開発を支援しています。

また、今年4月には糸島市でもLoRaWANネットワークの実証実験を開始しました。糸島市や福岡県などと連携し、子どもや高齢者などの「見守り」、ため池などの「水位管理」、コミュニティバスの通過情報を確認できる「バス管理」などです。これらは、僕らがしたかった本当に人のためになる事業なんです。

世界中でうちだけができることを実現

―この5月には新製品を発表して、話題になっています。

吉田 ワイヤレス技術やソリューションが一堂に会するイベント「ワイヤレスジャパン」で、近距離通信で安価なBLE(ブルートゥース・ロー・エナジー)端末を広域通信網へ中継するBLEルーターを発表しました。うちは、近距離のBLE製品のシェアが5割くらいあって、長距離の製品をつくることができる数少ない会社のうちの1社でもある。さらにネットワーク環境の整備もできるようになったので、その全てを生かして製品を作りました。これができるのは、おそらく世界でうちだけだと思います。

―長距離では近距離をカバーできないのでしょうか?

吉田 できるけれど、長距離は全ての部品がまだ高い。BLEなら1000円くらいのものが長距離は1万円とか。だから、近距離と長距離は用途に応じて使い分けなきゃいけない。僕らが目指しているのは、今後、高齢者や子どもを見守るための機器、鍵のかけ忘れやガスの元栓忘れなどを感知する機器などが出てくるけれど、その機器自体を雑貨のように安くすることと、そのお知らせのシステム契約を簡単かつ低価格にすることなんです。

―見守りに注目したきっかけは?

吉田 僕の母親がひとり暮らしになり、大丈夫かなと気になる。それに、誰かが行方不明になったら自衛隊や警察が出動して探すけど、LoRaを引いてしまえばすぐに見つけられるんですよ。以前、僕らはパソコン業界とのつながりがメインだったのに、今は農業から道路、川、医療など、多岐にわたる案件がやってくる。成功すれば広がりが大きいし、社会的な意義もある。それを1社で全てできて、価格も抑えられるというのが僕たちの強みです。

従業員の声に耳を傾け、社外の人たちとつながることで成長

―なぜ福岡に拠点を置き続けているのでしょう?

吉田 「中国に近いから」とかしゃれたこと言ってみたいけど、特にそういうことでもなく(笑)。ここが地元で、ご飯がおいしくて、僕らが行かなくても東京の会社の人たちが来てくれるから、拠点を移す必要がない。住み慣れた土地で、集中していろいろ考えることもできるしね。

―昨年、糸島に新しい工場を作られましたね。

吉田 最初はここでパートのおばちゃん3人から「寒い」「暑い」と文句言われながらやってて。近くにもう一つ借りた工場が手狭になったので、糸島に広い工場を作りました。今、従業員は70人くらいで、これから糸島工場で働く人を増やしていくつもりです。工場は最新設備の全自動とかじゃなくて、基本的に人の手でやってる。すると、おばちゃんからいいフィードバックが来るんですよ、「組み立てるとき、指のここが痛い」とか「ここは組みにくい」とか。じゃあ、設計や組み方を変えようと工夫して、工数が減って、コストダウンにつながることも。

―現場の声を大事にされているんですね。

吉田 新製品の立ち上げのときは、営業や開発など関わった全員が工場に集まります。設計した人がどう作るか説明して、工場の人が作りにくかったら設計変更することもあり、営業はお客さんからの要望に見合っているか確認して、みんなで話し合って。この場はとても大切です。

「アイディアをカタチにしています。」と書かれたBraveridgeのポスター

―改めて、会社が成長してきた要因は?

吉田 15年かけて、一つ一つ積み上げてきたけんね。技術は結局ツールだよね。会社としては、いろんな情報を共有できる社外の人を増やしてきた。最たるものは半導体の情報で、どんなセンサーができるか、何が検知できるのかなどはほとんど半導体で決まっていて、その半導体をいかに使いこなすかが重要。そういう情報を共有していただける会社といい関係を継続しておくことが、会社にとっては肝要ですね。世の中にはウソの情報もあるから、本当の情報をつかんできちんと見極めて、会社の方向性を決めていく。それが会社として進化するかどうかのキモやないかと思います。

福岡を「本当のモノづくりの都市」にしたい

―御社が選ばれる理由をどう捉えていますか?

吉田 お客さんに言われるのは、まずは思っているものを形にしてくれる会社が少ないということ。その中で、うちはお客さんに言われたままを作るわけではない。こんなモノ作りたいとアイデアベースで相談されたら、僕らの知識や経験をもとにやーやー言って盛り込みつつ、なおかつ適正な価格の中でできることを考える。もしかしたらうるさいかもしれんけど、やーやー言ってとことん話し合って、お互いに納得できる形にする。そういうことを期待して来られる方も多いですね。

―今後、会社としてやっていきたいことは?

吉田 世の中がどう変わっていくかを知り、仲間から本当の情報を得て、その先にはまた新しい世界があって、そこでビジネスを広げる。その繰り返しだと思う。

実は、僕には夢があるんですよ。福岡を深センをしのぐ、本当のモノづくりの都市にしたい。深センはモノづくりの都市として世界の工場と言われて、シリコンバレーでは「試作・量産は深センで」というマニュアルがあるくらい。でもね、僕は20年深センに行っていて、あそこは本当のモノづくりと言えないと感じる。自分たちだけでは要望に応えられなくて、結局は僕みたいな人間が行ってケアしないとちゃんとした製品が完成しない。モノづくりのプロ集団ではないということです。では、日本の昔のモノづくりはどうだったかと振り返ると、東京の大田区や東大阪あたりでは技術力も意識も高いプロフェッショナルな人間がモノづくりをやってたんじゃないかな。だから、僕はかつて日本にあったような本当のモノづくりを福岡に持ってきたい。福岡にいろんな人や機能を集めて、モノづくりの都市にしたい。そうすれば日本のスタートアップも応援できる。ここ福岡で日本のモノづくりをやり直したいと思っています、ゆくゆくね。

 

吉田剛(よしだ・つよし)さん
福岡県福岡市出身。城南高校、東京理科大学を卒業後、九州松下電器(現・パナソニック システムソリューションズジャパン)に入社。平成16(2004)年に小橋泰成さんと株式会社Braveridgeを設立し、代表取締役社長に就任。平成29(2017)年、経済産業省から「地域未来牽引企業」、福岡県から「グリーンアジア国際戦略総合特区」の指定法人に選定される。同年11月、糸島リサーチパークに新しく糸島工場を建設。

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