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更新日: 2021年3月26日

福岡市民俗芸能公演~中世の舞と響き~



福岡市民俗芸能公演

3月13日(土曜日)東区のなみきホールで、博多松囃子をはじめとして、中世にルーツを持つと考えられる福岡県内の5団体が、これまで守り伝えてきた芸能を披露しました。各芸能の解説を公演当日の様子と共に動画で紹介します。


中世という時代

中世とは、およそ平安時代後期(いまから800年前)から戦国時代(いまから400年前)までの期間のことを指します。この時代は権力が地方に分散し、民衆が力を持った時代でした。全国の町や村では、年中行事や寺社の祭礼にあわせて、厳かで華やかな芸能が神仏に奉納され、それらを見る人々を喜ばせました。

5つの民俗芸能は、中世に生まれた語り物・田楽・風流・念仏踊り・囃子物(はやしもの)といったジャンルの芸能です。中世には多種多様な芸能が生み出されましたが、時間を越えて現代まで継承されているのはその一握りでしかありません。しかし、現在に至るまで、様々な困難を経ながらも、それらの芸能は人から人へと伝えられています。


幸若舞(こうわかまい)(国指定重要無形民俗文化財・みやま市)()

幸若舞は、毎年1月20日にみやま市の大江天満神社舞堂(まいどう)で演じられます。幸若舞は、室町時代に舞や曲舞(くせまい)と呼ばれていた語り物芸能の一つで、越前出身の幸若太夫(こうわかだゆう)によって演じられたものが愛好されました。幸若太夫については、信長が愛好していたことが知られ、信長が桶狭間(おけはざま)の合戦前に幸若舞を舞ったというエピソードは有名です。幸若太夫の系譜は、明治期に途絶えてしまったため、みやま市の幸若舞は、現在残る日本唯一の幸若舞です。公演では、信長が舞ったと伝えられる「敦盛(あつもり)」の後半部分を演じていただきました。

 

竹の曲(たけのはやし)(県指定無形民俗文化財・太宰府市)()

竹の曲は、平年の9月22日・23日に行われる太宰府天満宮の神幸(じんこう)行事の中で奉納されます。道中、御輿の前楽を奉じ、還御(かんぎょ)の際に仮宮である浮殿と本殿の前庭で、奉楽(ぶがく)(うたい)に合わせた稚児のささら舞と扇舞が奉納されます。門前町の商家「六座(ろくざ)」と称する家々の子孫のみによって受け継がれ、今日に至ります。六座とは、その昔、米屋座・鋳物屋座・鍛冶屋座・染物屋座・小間物屋座・相物屋座といった6つの同業者のグループのことです。
竹の曲は、中世に生まれた田楽(でんがく)という芸能に、そのルーツを持つと考えられています。田楽は既に11世紀の終わりには記録が見える芸能で、御霊会(ごりょうえ)と呼ばれる、死者の怨霊を慰めるために行われた祭礼の中で披露されたことが始まりでした。その後、田楽は当時の曲芸なども採り入れ、祭礼に集う人々の気持ちを鼓舞し、興奮させる芸能へと変化していきました。田楽は、鎌倉時代の末から南北朝時代に大流行を見せました。



志賀海神社神幸祭(じんこうさい)の芸能(県指定無形民俗文化財・福岡市東区)

志賀海神社の神幸祭は、現在隔年で10月第2土曜日に行われ、神幸行列の古来の姿を残すものです。神幸祭では、御神輿(おみこし)がお旅所(たびしょ)に下ります。御旅所では、「龍の舞」「八乙女(やおとめ)の舞」「鞨鼓(かっこ)の舞」が演じられます。これらの芸能は、志賀島に伝わる神功皇后(じんぐうこうごう)にまつわる説話に基づくものです。志賀海神社には鎌倉時代末期から南北朝時代に制作されたとみられる、「志賀海神社縁起絵」が伝わります。この中には八乙女の御神楽(みかぐら)によって呼び出された志賀海神である阿曇磯良丸(あずみのいそらまる)が海中から亀に乗って現れ、神功皇后の船の舵取として活躍する姿が描かれています。



感応楽(かんのうがく)(国指定重要無形民俗文化財・豊前市)

感応楽は、大富神社の神幸祭に際して隔年で奉納されているもので、現在は4月30日と5月1日の両日に行われます。福岡県と大分県の旧豊前国地域から大分県の国東半島にかけて「楽打(がくうち)」と呼ばれる民俗芸能が現在でも20ヶ所分布しています。中でも感応楽は、旧豊前国内では最も歴史の古いものと言い伝えられてきました。楽打ちは、中世に流行した風流(ふりゅう)踊りと念仏踊りの系譜をひく民俗芸能と考えられています。風流とは、中世に流行した趣向・芸能の総称です。見る人々をあっと驚かすような趣向を求めた風流踊りは、当時の庶民によって発展され、一大流行を見せました。感応楽の菅笠や団扇などには風流の姿を感じることができます。一方、念仏踊りは、元々は仏教儀礼であった踊り念仏から発展した芸能です。感応楽の中では「なむあーかみど」と演じ手が大声で唱えますが、これは念仏が訛ったものと考えられ、念仏踊りの流れを感じさせます。
稲作を生活の根幹に据えていた当時の人々にとって、水害や干ばつなどは命にも関わる非常に重要な事柄でした。また、そうした天変地異は怨霊などの悪霊が引き起こすものと考えられていました。感応楽には、踊りを演じることによって悪霊を鎮めようとする、当時の人々の祈りの姿を見てとることができます。



博多松囃子(はかたまつばやし)稚児舞(ちごまい)(国指定重要無形民俗文化財・福岡市博多区)

博多松囃子は、現在毎年5月3日、4日に行われています。櫛田神社を出発し、博多を中心とした福岡の町中を祝してまわります。福神(ふくじん)恵比須(えびす)大黒(だいこく)の三福神を中心とする行列が、傘鉾(かさぼこ)に先導され、神馬に乗って町内や家々を巡ります。稚児舞は、三福神とは別に、舞姫と呼ばれる女児が(うたい)と囃子に合わせて舞うものです。松囃子は中世に流行した芸能で、新春に祝言を述べ様々な芸を演じました。博多においては、天文八年(1539年)に松囃子が行われた記録があります。江戸時代には、福岡城も訪れ、稚児舞も披露されました。博多松囃子は、博多独自の(ながれ)という地域組織によって各役が担われ、三福神は福神流、恵比須流、大黒流の三流、稚児舞は稚児東流と稚児西流からなります。各流とも、町内を回るときには、主に子どもたちが言い立て(いいたて)と称した祝言の言葉を、太鼓を叩きながら節に乗せて、唱えてまわります。