当地区は、第2次世界大戦中に空襲の避難用地として設けられた疎開地でしたが、終戦後戦災や外地引き揚げで財産を失った人々によって生活物資市場(通称ヤミ市)が形成されました。
しかし、疎開跡地の旧地主返還が土地使用関係の清算まで至らなかったため店舗の改造もままならず近代化に取り残され商業活動も沈滞化し、火災などの危険にもさらされていました。
また、幹線道路も狭く都市計画決定されており、用地買収、物件移転では零細権利者の再起が至難でありました。
そのような状況の中で昭和36年に市街地改造事業法の制定に伴い当地区を含む周辺地区の改造計画を立て、検討を進めましたが、当地区については土地所有者と借地・借家人の権利主張が対立し着手までに至りませんでした。
その後、昭和44年に都市再開発法が制定され、その中で権利変換という手法が導入され地元商店街が中心となって市街地再開発事業の検討が始められました。
キーテナント誘致については困難を極め、キーテナントが未定のまま、福岡市第1号の市街地再開発事業として都市計画決定がなされました。
キーテナント誘致についてはその後も紆余曲折がありましたが、地元と行政が一体となって推進し、昭和54年に新しいまちづくりが完了しました。
建物外観
事業区域図
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福岡市中央区渡辺通一丁目の一部
福岡市
約2.2ヘクタール
土地・建物所有者:186名
借家人:114名
計:300名
年時 | 経緯 |
---|---|
昭和28年5月 | 商店街から街路事業延期の陳情,自力による店舗建て替えの検討 |
昭和36年8月 | 市街地改造事業の検討開始 |
昭和44年11月 | 再開発協力会を結成し、市への再開発着手の要望 |
昭和45年10月 | 再開発構想策定、建設省事業採択 |
昭和46年7月 | 再開発協力会が推進協議会へ発展 |
昭和48年1月 | キーテナントのデパートが辞退 |
昭和48年3月 | デパートを核とした都市計画決定(3.15) |
昭和49年3月 | 複合商業ビルで都市計画変更決定 |
昭和49年7月 | 民間デベロッパーと覚書を交換 |
昭和49年10月 | 事業計画認可(10.23) |
昭和51年6月 | ホテル棟の保留床売買予約計画締結 |
昭和51年8月 | 構想変更による都市計画変更決定 |
昭和51年9月 | 都市計画変更に伴う事業計画変更認可 |
昭和51年10月 | ホテル棟を先行して建築工事着工 |
昭和51年12月 | 業務等の保留床売買予約契約締結 |
昭和52年2月 | 権利変換計画決定 |
昭和52年3月 | 権利返還期日(3.2),商業・業務棟建築工事着工 |
昭和53年2月 | 駐車場棟変更に伴う権利変換計画・事業計画変更決定 |
昭和54年3月 | 再開発ビルオープン |
約13,500平方メートル
約11,000平方メートル
約89,600平方メートル
鉄骨鉄筋コンクリート造
地上14階 地下2階建
商業施設・業務施設・ホテル
約430台
建築断面図
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名称 | 幅員 | 延長 |
---|---|---|
都市計画道路渡辺通線 | 50m | 約120m |
都市計画道路 博多駅長浜線 | 36m | 約120m |
都市計画道路 春吉渡辺通線 | 12m | 約190m |
都市計画道路 渡辺通再開発線 | 12m | 約120m |
地下道(電気ビル連絡) | 6m | 約50m |
地下道(清川方面連絡) | 4m | 約60m |
サンセルコ広場 | 1箇所 | 約948 平方メートル |
総事業費 約232億円