現在位置:福岡市ホームの中の市政全般の中の国際交流・国際貢献から官兵衛ものがたり(2) | みんなで盛り上げよう 福岡!2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」
更新日: 2013年3月11日

秀吉を天下人にした天才軍師
黒田官兵衛 大河ドラマ主人公に

官兵衛ものがたり(2)

福岡に残した足跡

黒田家と福岡との関わりは、1600年関ケ原合戦の戦功により黒田長政が福岡藩主となってから始まったと思われていますが、実は官兵衛と福岡のつながりは、その13年も前に始まっていました。

全国統一を目指す豊臣秀吉は1587年5月、薩摩の島津氏を下し九州の戦乱を収めます。官兵衛は前年8月から秀吉軍の先発隊として九州に来ており、1587年正月、後に名島城主となる小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)と連名で博多での軍勢や無法者の略奪を禁じ、まちの安全・安心を保障する禁制(法度)を出しました。また、官兵衛は戦乱で避難した住民を博多に呼び戻すように秀吉に命じられ、同年6月から始まった博多の復興事業「太閤町割(たいこうまちわり)」にも関わりました。

文禄の役(1592年)前年3月、官兵衛は名島城主小早川隆景が主催する茶会に招かれ、博多の豪商神屋宗湛(かみや・そうたん)も席を共にしました。茶会の後には名島の松原に連れだって出かけています(「宗湛日記」から)。

1600年末、筑前に入国した長政は名島城に入り、官兵衛は親しかった神屋宗湛の旧宅があった博多の宗湛町(現在の博多区綱場町・店屋町)に仮住まいします。翌年から福岡城の築城が始まりますが、この間、官兵衛は太宰府天満宮の鳥居の東に宅を移します。境内には「如水の井戸」が残っています。官兵衛は和歌・連歌の神としても知られる天神様(菅原道真)を崇敬し、夢の中でのお告げにより詠んだ連歌を奉納しています。

御鷹高屋敷跡の石碑福岡城の築城が進むと、三の丸の小高い丘に住居を構えました。そこは現在の牡丹(ぼたん)・芍薬(しゃくやく)園で「黒田如水公御鷹屋敷(おたかやしき)跡」の石碑が立っています。

<写真:御鷹屋敷跡の石碑(クリックすると大きく見ることができます)>

「黒田家譜」には、福岡で官兵衛が過ごした住居は質朴で官兵衛夫妻を世話する人は少なかったなど、「常に倹約にして華美を嫌い給いしこと、皆この類なり」と記されています。

崇福寺にある官兵衛の墓その後官兵衛は病を患い1604年3月20日、京都伏見で没したとされています。享年59歳。法名・龍光院殿如水円清(りょうこういんでんじょすいえんせい)。墓は京都の大徳寺龍光院と崇福寺(博多区千代四丁目)にあります。崇福寺の黒田家墓所(市指定史跡)には、官兵衛・長政父子をはじめ歴代藩主とその一族など12基の巨大な石塔が立ち並び、遺徳をしのばせています。

<写真:崇福寺にある官兵衛の墓(クリックすると大きく見ることができます)>

辞世の句城の完成を見ずに亡くなった官兵衛でしたが、世の句では「思いおく言の葉なくてついに行く、道は迷わじなるにまかせて」と、世を達観した心境を詠んでいます。戦乱の世から天下統一に至った激動の時代を存分に生き抜いた官兵衛の満足感が伝わってくるようです。

<写真:辞世の句(クリックすると大きく見ることができます)>



 

関連情報

・御鷹屋敷跡(牡丹・芍薬園)

  • 開園時間:午前9時~午後5時
  • 料金:無料
  • 花の見頃は5月上旬~中旬
  • 問い合わせ:舞鶴公園管理事務所(電話 092-781-2154 /FAX 092-715-7590)
  • 舞鶴公園(まるごと福岡・博多) >>

(ふくおか市政だより 2013年3月15日号より)

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