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更新日: 2017年5月19日
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福岡の景観ちょこっと知識

日頃見慣れたあの場所、あの景観の意外なお話を集めてみました。

【出典】
空閑龍二著「福岡歴史がめ煮 博多区・中央区編」
九州産業考古学会編「福岡の近代化遺産」
宮崎克則福岡アーカイブ研究会編「古地図の中の福岡・博多」
西日本新聞社「博学博多 ふくおか深発見」
福岡地方史研究会編「福岡市歴史散策」
九州大学医学部ホームページ
福岡女学院中学校・高等学校ホームページ


大濠公園は、草香江という博多湾の入り江だった。

 江戸時代初期に黒田長政が筑前国に入って福岡城を築城した折、大濠の一帯は城西側の天然の外堀として利用され、草香江と呼ばれた博多湾の入り江だった。大正の末、中国杭州の西湖をモチーフにした大濠の公園化が提案され、整備の末、1927年に「東亜勧業博覧会」が開催されて多くの人が訪れた。この提案をした本多静六は日本初の洋風庭園として日比谷公園を設計していることでも有名であり、大濠公園は日比谷公園と兄弟分といえる。その後、1929年に都市公園法に基づく県営大濠公園として開園した。ちなみに、県立公園である大濠公園には市の美術館が、市立公園である須崎公園には県の美術館がある。

西湖をモチーフにした大濠公園の写真
 

西湖をモチーフにした大濠公園


博多塀は究極のリサイクル土塀である。

 博多塀は、豊臣秀吉が進めた博多町割(戦災復興)の際に生まれた土塀で、当時の一般的な“築地塀”とは異なり、戦火による焼け石焼け瓦等を塗り込めた、いわば廃材活用のリサイクル土塀である。秀吉が来る前の博多は、大友、毛利、島津氏たちの争奪戦に巻き込まれて見渡す限りの焼け野原。人々の博多復興への願いと、大陸出兵の物資補給基地として博多を重要視した秀吉との思いが一致し、太閤町割りによるまちの再興が実現した。緻密な測量と風水を重視したユニークな都市計画、そして秀吉の出した楽市楽座令は、現在の博多の繁栄の礎となり、その中で博多塀は平和への願いが込められた記念碑となった。現在、復元された博多塀を櫛田神社境内で見ることができる。

櫛田神社境内の博多塀の写真

櫛田神社境内の博多塀


市民の短歌で伐採をまぬがれた桜がある。

 1984年、南区桧原で道路拡張のために桜が伐採されようとしていた。胸を痛めたある人が夜明け前、こっそりと桜の木に数枚の色紙を結わえた。「花守り 進藤市長殿 花あわれ せめてはあと二旬 ついの開花を ゆるし給え」。せめてあと二十日ほど切らずに、最後の花を咲かせてやってほしいという嘆願だった。これが西日本新聞の紙面で紹介され、記事を読んだ進藤一馬市長(故人)が「桜花(はな)惜しむ 大和心のうるわしや とわに匂わん 花の心は 香瑞麻(かずま)」と、桜の樹に返歌を寄せ話題に。道路計画は修正され、8本の桜は生き延びた。現在では“桧原桜”と呼ばれて親しまれ、春になると多くの人が短歌を読んで公園に飾っている。

桧原桜と記念碑の写真

桧原桜と記念碑


福岡市のお寺の数は京都に次いで多い。

 福岡市内にはお寺がたくさんあり、その数は京都に次いで多いという。しかもその場所は福岡城の川沿い(城側)、海沿いに集中している。これは福岡藩が糸島の寺をわざわざ持ってくるなどして、二重三重にお寺を造らせたから。いざ戦いになったときには本堂と庭を、集まってきた武士たちの集会場や宿舎にしようとしていた。また、墓石を鉄砲の弾よけにするというねらいもあったという。つまり、お寺が防衛拠点と位置づけられていた。唐人町西奥には善龍寺、浄(成)道寺、吉祥寺、妙安寺、当時の北の海辺にあたる場所には妙法寺、浄慶寺、正光寺、大円寺などがある。

唐人町の妙法寺の写真

唐人町の妙法寺


竹下のアサヒビール工場の中には福岡平野最大級の前方後円墳がある。

 この東光寺剣塚古墳は、別名で観音山古墳と呼ばれている。那珂川右岸10メートルの台地上に築かれた福岡平野最大級の前方後円墳で、墳丘は長さ75メートル、後円部直径46メートル、前方部の幅59メートル、高さ5.5メートル。後円部南側には遺体を埋葬した複室横穴式石室があり、後室には石棺が置かれ、石室から刀・勾玉などが出土した。古墳築造は、6世紀中ごろといわれている。古墳を抱き込む形でビール工場があり、アサヒビールでは古墳を大切に保存してきた。物流ゲートの守衛所で手続きすれば、年末年始以外見学できる。遺跡見学の後には、古代ロマンに思いを馳せながら、できたてビールを飲むのもいいかもしれない。

東光寺剣塚古墳石室の入り口の写真

東光寺剣塚古墳石室の入り口


住吉に東京・向島を再現したレジャーランドがあった。

 博多の「誓文払い」を始めたことで有名な八尋利兵衛は、那珂川の住吉土手を東京・向島のようなレジャーランドとして開発することを提唱。2年にわたって資金作りに奔走し、1893(明治26)年に着工して97年に完成させた。一帯には桜や柳約1000本を植え込み「住吉向島」として大いににぎわったという。現在、その名残として、開園を記念して建てられた高灯籠(常夜灯)が、キャナルシティ博多近くの那珂川沿いの「清流公園」南端に移築されている。これは高さ約10メートルもあり、石垣の内140面に社名広告が彫り込まれ、明治期に建てられた博多随一の広告塔であった。

「清流公園」に立つ高灯籠の写真

「清流公園」に立つ高灯籠


馬出小学校にある象の顔が付いた門は動物園があった名残。

 東区の馬出小学校正門の右側には象の顔が付いた門柱らしきものがある。これはかつての福岡市動植物園の痕跡である。昭和天皇即位記念事業として福岡市にも動植物園を建設する計画が出されたのは、1928年(昭和3年)。当初は警固周辺や西公園などが候補地として取り上げられていたが、当時福岡市が千代町と合併した直後であったことから、地域融和を配慮して東公園、馬出の地に動植物園を建設することが決定された。この「御大典記念福岡市動植物園」は1933年に開園。敷地6000坪に、象、ヒョウ、ライオン、シロクマ、トラ、ニシキヘビ、ワニ、オオカミ、シカ、ラクダ、ツル、オウムなど、多くの動物が飼育されていた。しかし、太平洋戦争末期の1944年、動物園は各地で閉園され、猛獣などは殺処分された。現地には正門だけが残され、福岡中学校の正門として使用された後、そのまま今度は馬出小学校の敷地の一角に保存されている。この門はドイツ・ハンブルク市のハーゲンベック動物園の正門を模して作られたといわれている。他にも海獣池に設けられていた浮見堂が大濠公園に移設され、今も親しまれている。
なお、現在の福岡市動植物園は、中央区平尾にあった浄水場の跡地を利用して1953年(昭和28年)にオープンした。

馬出小学校にある象の顔が付いた門の写真

馬出小学校にある象の顔が付いた門

名古屋名物で有名な「ういろう」だが、「ういろう伝来の碑」が博多区御供所町にある。

 ういろうが日本で最初に製造されたのは博多の妙楽寺である。室町時代、御供所町の妙楽寺に寄宿していた元(げん)の役人陳延祐(ちんえんゆう)は日本に帰化。その子宗寿(外郎)は妙楽寺で「寿香(じゅこう)」別名「透頂香(とうちんこう)」をつくり美味と評判を得た。毎年足利幕府へ献上し義満に賞味され、後世、義満に招かれて京都に役宅をもらい、寿香製造以外にも外交ブレーンを務めた。この「寿香(透頂香)」が「ういろう」と呼ばれ、代々の秘法で製造継承されたという。ういろうは、戦国期に宗寿一族の誰かが小田原に移り住み、北条氏に献上したことから小田原名物になったといい、今では博多より小田原、名古屋、山口の名物という印象も強い。だが、元祖ういろうは博多。それを今に伝える立派な「ういろう伝来之碑」が妙楽寺前に立っている。

妙楽寺の前にある「ういろう伝来之碑」の写真

妙楽寺の前にある「ういろう伝来之碑」


川上音二郎の墓は承天寺にあり、博多駅に向かって建てられた。

 承天寺には、博多・中対馬小路出身で新派劇の祖とされ妻の貞奴とともに国内外で活躍した川上音二郎の墓がある。旅役者の悲哀を身をもって味わっていた音二郎は、「死んだら旅役者の守り神になるから汽車の見える所に墓を立ててほしい」と望んだという。明治時代に博多で鉄道が開業したとき、博多駅は現在の博多区役所や博多警察署がある一帯に建築され、承天寺は鉄道の横にあった。汽車がよく見えるようにと高さ4メートルにもなる自然石の墓石だが、現在、博多駅の移転やビル街の建築で墓から列車は見えなくなってしまった。ふだん一般の人が墓を見ることはできないが、11月11日の命日には音二郎忌が開催されている。
承天寺には「饂飩(うどん)蕎麦(そば)発祥の地」や「饅頭製法伝来の地」の碑もある。これらの文化は聖一国師に付いて中国宋に渡った人々が伝えたという。

博多駅前一丁目にある承天寺の写真

博多駅前一丁目にある承天寺


櫛田神社境内には、世界最古の公立図書館があった。

 櫛田神社境内にあった櫛田文庫は1818年開設。ボストン美術館の開館より30年も前のことであり、世界で最初の公立図書館だった。当時の学問所は武士限定の藩校・修猷館だけで、櫛田社の天野土佐恒久神官は、一般町人の教養の場に文庫開設の必要を熱望した。これが藩町奉行兼寺社奉行の井手勘七伊明にはかり、藩主斎清の意向により藩自らの文庫開設となった。しかし、藩の圧力により5年で閉鎖。閉鎖の表向きの理由は、若者が読書にふけり「家業がおろそかになる」であった。

櫛田神社境内の写真

櫛田神社境内


冷泉町の竜宮寺には流れ着いた人魚を供養した「人魚塚」がある。

 1222年、博多の入江に大きな人魚が流れ着いた。後堀河天皇が人魚の漂着の意味を占わせたところ、国が栄える前兆とでた。天皇は大変喜び勅使に冷泉中納言を博多に下向させたがすでに人魚は息絶え、町人によって埋葬され人魚塚が建っていた。勅使がそこに寺を建立したのが「竜宮寺」の由来という。寺宝は桐箱入りの「人魚の骨」と「人魚の掛軸」。当時、人魚の肉は不老長寿の妙薬であるという言い伝えから、連日参拝者が群れをなし、人魚の塚石を砕いて飲んだ。飲み尽くされてしまったという人魚塚も昭和33年に再建され今に至っている。

竜宮寺の人魚塚の写真

竜宮寺の人魚塚


博多どんたくは名島城を居城とした小早川秀秋への年賀の松囃子がルーツ。

 元々は民俗行事の年賀の松囃子という。この行事も戦国時代の動乱で廃れていたが、「宗湛日記」には1595(永禄4)年、筑前国領主小早川秀秋の居城名島へ博多商人が松林を仕立てて年賀のお祝いに行った、とある。現在の博多どんたくのルーツは名島で始まった。小早川氏の統治期間は12年と短いが、この間、名島は筑前国の“首都”であった。

現在の博多どんたくの写真

現在の博多どんたく


修猷館は明治33年まで大名にあった。
福岡女学院高等学校の前身である福岡英和女学校は大正8年まで天神にあった。

 修猷館(東学問所)、福岡県立尋常中学校修猷館は大名にあり、三井海上・佐藤ビルの西側には碑が建っている。1784年、9代藩主斉隆の時、藩に学問所が二カ所設けられた。その一つ東学問所がこの場所。県立修猷館高校の前身である。朱子学を奉じ、松平定信による「寛政異学の禁」の後は、藩学の主流として威勢をふるった。また、福岡女学院は、アメリカ人宣教師ジェニー・ギールにより「英和女学校」として、現在の天神2丁目福岡天神センタービルの場所に1885(明治18)年に創立。1888(明治21)年には福岡唯一の西洋館である新校舎を建築した。

修猷館跡の碑から見えるのは福岡城の堀の写真
 

修猷館跡の碑から見えるのは福岡城の堀

英和女学校があった所は天神のビジネス街の写真
 

英和女学校があった所は天神のビジネス街


 九州大学医学部構内には千利休が秀吉に茶を献じた際に鎖で釜を掛けた松が残っている。

 

 1587年、豊臣秀吉は九州平定に乗りだし、自らも九州に入り島津軍を降伏させる。その帰りの6月、秀吉は筥崎宮に20日ほど滞在。その間、博多の豪商神屋宗湛らと何度か茶会を持った。6月18日、今は九大医学部や九大病院のある箱崎浜・千代松原で、千利休が茶会を開き秀吉に献じた。その際、利休は松の枝に鎖をかけて、雲竜の絵柄の小釜をつるして松葉をたいたという。小釜をつるした松は「利休松」として伝えられ、現在は医学部基礎研究A棟前に跡地が「釜掛けの松」として顕彰されている(実際の場所はもう少し筥崎宮寄りだった)。
この茶会には、当時「茶の三大宗匠」の一人、天王寺屋宗及(津田宗及)も堺から下っており、黒田孝高(如水・福岡藩祖)の叔父にあたる小寺休夢らが顔を連ねて詠じている。秀吉も二首詠んだ。このときの参会者の歌短冊7枚が、九大医学部そばの筥崎宮に保管されている。

茶会を記念する碑の写真

茶会を記念する碑


 福岡県公会堂貴賓館はイベントのために建てられたものだった。

 福岡市の町並みが近代化する大きな原動力になったのは「第13回 九州沖縄8県連合共進会」。これは「同業者の見識を開発し、物産を比較しその改良発達を図る」目的で各県の持ち回りで開催されたイベントで、今でいう博覧会や見本市のようなものだった。会場は現ソラリアプラザ近辺から中央公園、さらには西日本新聞社付近一帯に至る約10万平方メートルに及ぶ敷地で、60日間にわたり各種の物産品や電飾広告塔を展示、延べ90万人を超える入場者を記録した。
これに合わせて市内電車が開通。また、現在の福岡市章が制定されたのもこの共進会を契機にしたもので、まさに福岡市の骨格をつくり上げた一大イベントだった。県公会堂貴賓館はこのとき会期中の来賓接待所を兼ねてつくられ、後に孫文や皇太子(後の昭和天皇)も泊まった。国の重要文化財。

天神に保存されている貴賓館の写真

天神に保存されている貴賓館