亀井南冥(なんめい)(1743~1814)は江戸時代中期終わりに活躍した医者・儒学者。姪浜村に.医者の子として生まれ、儒学・古医方を学び、父と唐人町で開業していましたが、黒田7代藩主治之により儒医として取り立てられました。
天明4年(1784年)福岡藩に二つの学問所、東は修猷館(しゅうゆうかん)(朱子学)と西は甘棠館(かんとうかん)(徂徠学)が開設され、南冥は甘棠館の館長に任命されました。
この年、志賀島(しかのしま)で金印が発見され、偽物論や鋳潰し論がありましたが、南冥は「後漢書」から金印の由来を説明した「金印弁」を著して金印を守りました。その後、朱子学が尊ばれるようになり、寛政4年(1792年)、学長を解任され、寛政10年には甘棠館は唐人町の大火により廃校となりました。
南冥の息子昭陽(1773年~1836年) は、「詩は南冥、文は昭陽」といわれるほど優れた人で、南冥・昭陽父子は私塾百道社を作って門弟の育成につとめました。また、孫娘の亀井少琹(1798~1857年)は今宿に住み、漢詩と絵画の才能は高く評価されています。
なお、能古博物館には、筑前亀井学派の資料が数多く展示されています。