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市史だよりFukuoka

「市史だより Fukuoka」第3号 (HTML版)

0. 表紙・目次

「市史だより Fukuoka」第3号 表紙画像
1. 考古学のすすめ
2. 金印って何なの???
3. 連載 福岡市史への歩み【2】 福岡市博物館顧問 田坂大藏
4. 表紙の写真は…
5. 部会だより
6. 歴史万華鏡【1】 福岡と博多、どっちがあなたの名前?
7. 編さん室だより
8. 編集後記

1. 考古学のすすめ

 福岡市史では6つの専門部会をもうけ、福岡市の歴史を考えています。市史だよりでは、部会ごとの学問的な魅力や活動内容をお知らせしていきます。今回は考古専門部会に考古学について語ってもらいます。考古学という学問そのものにも歴史があるようです。

「発掘調査」とひと言でいっても
 ここに一枚の絵図面があります。まるで現在の発掘調査記録をデザイン化し、古文書をレイアウトしたかのようなおもしろい構成です。実は、これは江戸時代のもので、安政(あんせい)4(1857)年、現在の筑紫野市大字二日市付近で発見された甕棺墓(かめかんぼ)副葬(ふくそう)遺物の記録で、『鉾之記(ほこのき)』と記されています。発見時の甕棺の図と出土遺物、さらにそれらに関する記述を美濃紙2枚にまとめています。これを残した鹿島九平次(かしまくへいじ)(1795~1864年)は現筑紫野市に生を受け、長じては村役人を勤めるかたわら福岡藩も認める学識者となったそうです。
 現在では、発掘調査の後に記録をとるというのは当たり前になっていますが、江戸時代では一部の研究者が取り組んでいたにすぎません。福岡藩でも、遺物や古墳の調査は地誌編さんとの関連で始まりました。貝原益軒(かいばらえきけん)青柳種信(あおやぎたねのぶ)はその代表選手です。福岡市博物館を覗くと、彼らに(ゆかり)のものを見ることができます。
 さて、お話をもとに戻して、発掘調査記録についてです。江戸時代の『鉾之記』に見られるような図面は近代になると、遺跡にマス目を組んで調査を行うグリッド法の導入により精度が上がりました。また現在では、高性能な測量機を使って調査する方法も始まっています。
 「発掘調査」とひと言でいっていますが、これは(1)現場調査、(2)整理調査、(3)調査報告の一連の作業を合わせた言葉です。現在の調査の大半が、開発によって破壊される遺跡の記録をとるために行われますが、後にその遺跡の重要性が認められた場合でも、遺跡の復元ができるように現地で細かく記録をとります(1 現場調査)。その後、発掘された遺物(必要な時は各地点の土など)を室内に持ち帰り、洗浄した後、復元や実測を行い、現地でとった図面や写真の整理をします(2 整理調査)。(1)現場調査・(2)整理調査のどちらにも必要なのは、とにかく観察することです。現地で遺跡と遺物の出土状況を確認し、また室内で遺物を細かく観察し、時代背景や当時の人のいとなみについて考えます。遺跡や遺物の位置付けがまとまった段階で、調査の経緯や現地調査の記録、出土遺物等の記録などを載せた「調査報告書」を作成します(3 調査報告)。
 ここであらためて『鉾之記』と現在の調査記録をご覧下さい。実測図の精度に関してはその比ではありませんが、その観察眼はすばらしいものです。
画像:江戸期、鹿島九平次という人物のあらわした絵図面。現在の筑紫野市にあたる場所で発見された甕棺墓の当時の図が描かれ、副葬品の中細形銅剣、星雲紋鏡が描かれているほか、解説が付されている鹿島九平次の絵図面(『鉾之記』)

多彩な考古学
 先人たちの力作にならい、福岡市史でも「現在持ちうる技術の粋」を駆使して取りかかっていきます。「技術」とは言っても、考古学分野だけの話ではありません。さまざまな分野からさまざまな手法を取り入れて、歴史的事実を総合的に評価していこうというものです。
 考古学は、建築学・文献史学・一見相反する自然科学などとの協力体制をとることで、歴史科学の一部門として動き出しています。
 さて、ここからが現代考古学のおもしろいところ、プラスαの領域です。遺跡や遺物は発掘調査の前後で、さまざまな分野の専門家によって調査・解析が行われます。代表選手をご紹介いたしましょう。

(1)考古学的手法 刊行された調査報告書をもとに、調査担当者を含む研究者が遺跡の形態や遺物を検証し、時代背景や文化交流等を考えます。

(2)自然科学的手法 ミクロの世界を覗いたり、薬剤や放射線を使って物質の正体を探ります。得られる情報はまさに多種多様で、左の6例はほんの一部です。
【1】資料の採取
種子や花粉などを土から取り出します。痕跡だけしか見られない場合、型どりをして取り出し、肉眼で見つけにくい遺物には顕微鏡を使います。
【2】非破壊分析
材料の産地などがわかります。遺物を破壊せずに、X線を使って成分を調べます。
【3】破壊分析
遺物の一部を切り出して成分を調べます。非破壊分析よりも正確な情報が取り出せます。
【4】解読
劣化して肉眼では判別しにくいものを、赤外線やX線をあてて読み取ります。文字資料は文献史学の資料としても活用します。
【5】年代測定
化学元素が持つ特性を生かして、年代を割り出します。有機物が残っている場合は、炭素を使うことが多いようです。
【6】遺伝子解析
動物・植物の遺伝子を探ることで、それがどこからやって来たのかがわかります。
(3)情報処理 コンピューターで情報の集積・活用を行います。GIS(Geographic Information System=情報システム)では、立体画像で地形の変化にともなった遺跡環境の変化を追うことができます。

 ほかにも文献史学・医学・人類学・建築学等々さまざまな分野から得た情報に考古学資料をあわせて、歴史事実を総合的に評価していきます。近年、新聞紙面等で「歴史が塗り替えられた!」などの文字が踊っていますが、これも情報入手経路が増えたことによって生まれたのが真相でしょう。平成に入ってから初めてわかった「昔の事」は多いのです。
 江戸時代に始まった発掘調査の考古学的記録は、私たちにさまざまな情報を与えてくれます。これは時代が変わって技術が発達しても、情報が生きているということです。福岡市史は、先人たちが全力投球で残した資料のように、現在持ちうる技術を駆使して情報の提供を行います。
画像:上月隈遺跡の出土品の実測図。甕棺および副葬品である中細形銅剣が描かれている現在の調査記録(『福岡市埋蔵文化財調査報告書第634集 上月隈遺跡群3』より)


画像:木簡のカラー写真と、X線を当てた白黒画像、それを実測図に書き起こした図面の3点からなる。肉眼で見える墨書はごく薄いが、X線をあてると浮き上がって来て、実測図に書き起こすとほぼ文字の形が見えてくる木簡の解読(写真提供:福岡市埋蔵文化財センター)
実物を観察するだけではなく、中央の写真のように赤外線も利用しながら、より正確に文字を読み取ります。右の図はその結果を実測図に書き起こしたものです。

考古専門部会の刊行計画
 考古専門部会では次のような市史の刊行を予定しています。
・資料編考古3(平成22年度刊行予定)
動物遺存体・植物遺存体・銭・未発表資料を取り扱います。動物遺存体(骨等)・植物遺存体(種子等)・銭については、遺跡から出土した資料を考古学と自然科学の二面から再検討し、当時の環境や流通を追究します。また、未発表のままとなっている遺物などについても、追跡調査および検証を行います。
・資料編考古1(平成27年度刊行予定)
早良平野・今宿平野の遺跡と遺物について紹介する予定です。
・資料編考古2(平成30年度刊行予定)
福岡平野の遺跡と遺物について紹介する予定です。
・通史編(平成32年度刊行予定)
資料編に掲載される遺跡や遺物をふまえて、わかりやすく福岡の歴史を叙述します。
・特別編(平成24年度刊行予定)
GIS立体画像を使って、地形の変化・環境の変化・遺跡の変選を追究します。
画像:GISで描画した、福岡市の南東側から博多湾を俯瞰GIS(地理情報システム)の画像(考古専門部会作成)
広域の立体地形のなかに遺跡の分布を示したり、古墳のように遺跡ごとの形状を表示させることができます。歴史的な情報を盛り込むことで、いろいろな時代の土地利用や環境の変遷がひと目でわかります。

2. 金印って何なの???

石の間の光る物
 天明(てんめい)4(1484)年3月、福岡藩那珂(なか)郡役所の奉行津田(つだ)源次郎(げんじろう)のもとに、とある書類が提出されました。

 私の田んぼが叶の崎という所にあるのですが、溝の水はけが悪かったので、先月二十三日に溝の修理をしようと岸を切り落としていたところ、小さな石が段々出てきて、二人で持ち上げる程の大きな石に当たったので、かな手子(てこ)で取り除きましたら、石の間に光る物がありました。取り上げて水で(すす)いでみると、金の印判のような物でした。云々(『百姓甚兵衛口上書』より)

 これが金印発見の経緯です。津田はこの書類を藩に提出し、藩は二つの藩校、(ひがし)学問所(修猷館(しゅうゆうかん))と西(にし)学問所(甘棠館(かんとうかん))の学者たちに金印鑑定を依頼しました。金印論争の幕開けです。
 東の竹田定良(たけださだよし)は「安徳(あんとく)帝が路に落としたか、入水の時に海中に没し、志賀島に流れ着いたものである」(『金印議』)とし、西の亀井南冥(かめいなんめい)は『後漢書(ごかんじょ)東夷伝(とういでん)・『三国志(さんごくし)魏志(ぎし)倭人伝(わじんでん)を引用して、「金印は中国からもたらされた古印である」(『金印弁』)としました。
 しかし、あまりにも謎だらけの金印には確たる証拠がなく、そのため長い間、多くの研究者たちが熱く真偽の程を論じてきました。
写真:志賀島を北西から南東へと俯瞰した空撮写真で、志賀島の全景、海の中道、博多湾が写し出されている。海は群青で、志賀島は緑深い金印が発見された志賀島

写真:国宝・金印。印面の上に、蛇をかたどった紐(つまみ)を持つ。蛇はとぐろを巻いて寝そべり、胴には細い三角形の蛇の頭がかたどられている。蛇の胴には「魚子(ななこ)」とよばれる鏨(たがね)で円い斑点が型押しされており、蛇の鱗を表現している。印面の部分は正方形で、一辺が2.3cmである金印(福岡市博物館所蔵)

写真:国宝・金印の印面。「漢委奴国王」の5字が書かれていると考えられ、今日では「かんのわのなのこくおう」と呼ばれるのが一般的。金印 印面(福岡市博物館所蔵)

中国よりはるばる
 そんな中、昭和31(1956)年、中国雲南(うんなん)晋寧(しんねい)県の古墳から漢の時代の印「(てん)王之印」が発見されました。金印の(ちゅう)は蛇、日本で発見されたものと同じです。この印が公開されるとともに偽物説は次第におさまり、弥生時代の日本に中国からもたらされた金印であるということが定説になりました。
 昭和41年、正確な計測が行われ、また平成元(1989)年には成分に関する分析も行われました。ほかの出土資料と比較するうえで必要な情報であり、これによって原材料の産地などを追いかけることができるようになりました。
 弥生時代、日本はまだ混沌としていました。弥生時代と言っても、「稲作が開始された」「小規模なクニがあった」という教科書のような話だけでは、金印のことはよくわかりません。日本がどういう状態だったのか、金印のふるさとである当時の中国がどういう状態だったのか、日本にとって中国はどういう存在だったのか、これらを知ったうえで見る金印はきっと一味違うことでしょう。
 みなさんも金印の背後にある当時の「ものがたり」を探ってみませんか?
写真:亀井南冥の著した書物『金印弁』の書影。志賀島の絵図や金印の図、印面の写しが描かれているほか、金印に関する考察をつづっている亀井南冥『金印弁』(福岡市博物館所蔵)

第2回福岡市史講演会のご案内
 福岡市史では、"志賀島出土金印から見た東アジア世界"と題して、講演会を行います。講演に続いて、宮本一夫九州大学教授(福岡市史編集委員)の司会によるシンポジウムも開かれます。ぜひご参加下さい(HTML版注:第2回福岡市史講演会は終了しています)
講師
高倉洋彰氏 西南学院大学教授(考古学)
鶴間和幸氏 学習院大学教授(東洋史)
日時
平成18年10月1日(日)午後2時
会場
福岡市博物館 1階 講堂
入場無料・事前申し込みは不要です(定員230名先着)

3. 連載 福岡市史への歩み【2】 福岡市博物館顧問 田坂大藏

 今回からは、福岡市の市史への対応が過去どのようになされていたかを、編年的に見てゆくことにします。福岡市史そのものは名称の違いはあれ、内容的に市史と称しているものは何種類か存在しているのです。
 修史編纂(しゅうしへんさん)事業を始めるきっかけにはさまざまな形があると思います。時期的に少し安定してきて、一息つけるようになって、現在にいたる沿革を考えようとする時であったり、外部からの要請あるいは刺激で始める場合などでしょうが、何かそれなりの契機・区切りがあるものです。
 区切りとして公私ともによく使われるものに周年記念があります。事業の必然性を問われるとき、「周年記念事業」で実施するという考え方は、あまねく受け入れられやすい考え方なのです。この観点で福岡市の修史編纂事業を考えてみます。
 ご承知のとおり、旧福岡藩は藩祖黒田如水(くろだじょすい)・初代長政(ながまさ)から12代にわたり、幕末まで黒田家が藩主の座を占めた藩でしたが、幕末の動向に一貫性を欠き、佐幕(さばく)派と見なされる行動をとったため、そのゆえか明治政府の対応ははかばかしくはありませんでした。太政官札贋造(だじょうかんさつがんぞう)事件では担当者の処罰に留まらず、旧藩主の更迭にまでおよび、藩内の動揺は隠せないものだったでしょう。竹槍騒動、士族の反乱などなど、新政権下の大事件は福岡県の中でも吹き荒れました。明治22(1889)年、福岡は市制をしくことにともない、市の名称を福岡市か博多市かどちらにするか、全市をあげての大論争騒ぎもありました。激動の時代であったことがうかがえます。
 大正年聞の初めには市史編纂の必要性が行政の中で唱われ、「市史編纂大綱(たいこう)」作成のための調査がなされていたようで、昭和2(1927)年には担当者が任命されています。ついで昭和13年には市制施行五十年史の編纂に着手し、翌14年3月には待望の『福岡市市制施行五十年史』全1冊が刊行されています。わずかに1冊だけの小冊子出版ではありましたが、民聞からも市制五十周年を記念する刊行物が出版されたりしていますので、周年事業としては成果があったと評価して良いと考えられます。この後も市史編纂担当の職員(身分的には嘱託)が任命され続け、小規模ながら編纂事業は継続されていたようです。
 昭和25年からは担当者が嘱託から正式職員となるとともに、「福岡市史編纂の構想」が作成され、さらに編纂委員会規程が設けられるなど、市側の編纂体制に変化が見られ、順調に走り出すかに見えましたが、第一回目の編纂委員会が急に流会になり、事業が無期延期とされました。理由は予算捻出不可能と時期尚早ということですが、理解しがたい理由と言うほかありません。

4. 表紙の写真は…

 この(かめ)は博多区板付(いたづけ)高畑(たかばたけ)遺跡で発掘された人面墨書土器です(口径約20センチ)。第17次調査で確認された大きな溝から発掘されました。土師器(はじき)の甕の側面に2か所、人の顔が書いてあります。今回表紙に載せたのはそのうち「しかめっ面」の方です。ちなみにもう片方は眉・口・目が点々と書かれ、表情があまりありません。この土器が発掘された大溝は古代のものですが、そのほか、木に文字や馬の絵を書いた木簡なども複数見つかっています。高畑遺跡はおおやけの機能をもった施設だったようです。
 この甕のうしろから顔をのぞかせているのは落書きではありません。これも東区香椎の香椎B遺跡で発掘された木簡に書かれていたものです(木簡は全長約22センチ)。木簡の墨書は鮮明ではありませんでしたので、実測図から登場してもらいました。同じ溝からは「寛治七年」(西暦1093年)の年号を記した木簡や、箸・白磁碗なども出土しています。ユーモラスな姿をしていますが、人ではなく仏様の可能性もあるようです。
 これら甕や木簡の実際の用途は、なかなか具体的には明らかにしにくいものですが、ほのぼのとした造形は、福岡地域に当時住んでいた人々に親しみをもたせてくれます。
写真:表紙に掲載された高畑遺跡出土の人面墨書土器。土師器の甕の中央に、眉を寄せ顔をしかめた人面が描かれている。その後ろから、木簡に描かれていた、どこか陽気に微笑んでいるような人物が、ひょいと顔をのぞかせている第2号 表紙の写真

写真:香椎B遺跡から出土した木簡。墨で人物が描かれているのがうっすらと見える写真提供:福岡市埋蔵文化財センター

5. 部会だより

(1) 考古専門部会
 平成18年度は昨年度に続いて、『資料編 考古3』(平成22年度刊行予定)・『特別編』(平成24年度刊行予定)刊行に必要なさまざまな調査を行います。『資料編 考古3』について一部ご紹介しましょう。
 ここで取り上げるものの一つ「板付(いたづけ)遺跡」は弥生時代の遺跡で、学術的にも重要な位置を占めています。大正5(1916)年の銅剣・銅矛発見から現在にいたるまで、常に注目を浴びていますが、今なお、多方面からの調査が行われています。
 市史では未発表資料を中心に、既存の情報と九州大学に所蔵されている土器や炭化した米などの資料も再調査し、科学技術によって「昔つかめなかった情報」を盛り込むことで、みなさんの疑問解消の一助となることを目指します。
写真:1952(昭和27)年の発掘調査でみつかった、板付遺跡の環濠(集落を囲む水堀)の跡と、その外側に並ぶ貯蔵穴(食料などを保管するために掘られた穴)を、南から写したもの。濠は写真の奥に向けて、南北方向にのびており、断面はV字形をしている。濠に沿うように、3つの貯蔵穴が並んでいる。板付遺跡(写真提供:福岡市埋蔵文化財第一課)
写真:板付遺跡の井戸から出土した土器。
合計13点の壺型土器とその他破片などが、前後2列で地面に並べられている。壺型土器のなかには丹塗りが施されたものがある。板付遺跡の遺物(写真提供:福岡市埋蔵文化財第一課)

(2) 古代専門部会
 古代専門部会では史料の収集だけではなく、専門委員を中心として研究会を開いています。研究会では、福岡の古代史を考えるうえで重要となる最新の研究をテーマに、毎回議論が繰り広げられています。ここでの成果は今後の調査や市史の記述にも直接役立てられていきます。
 今年度はまず、井形進専門委員(九州歴史資料館)に「福岡平野の宋風獅子」をテーマにご報告頂きました。宋風獅子というのは、中国の宋時代(10~13世紀)の作風を持つ獅子像(狛犬のようなもの)のことなのですが、二頭の獅子が対になって、一頭が子供を、もう一頭が毬を抱くのが一つの特徴なのだそうです。首をかしげた姿はかわいらしく、大変ユーモラスです。この獅子像、あまりたくさんは残っていないのですが、そのほとんどが北部九州にあるそうです。大陸とさかんに交流していた北部九州の特徴がうかがわれます。  古代といえば、つい難しい漢文や読みづらいかな文字で書かれた文献ばかりを思い出しますが、古代専門部会ではこのような美術資料の調査も積極的に進めています。

(3) 中世専門部会
 中世専門部会では、平成21年度刊行予定の『資料編 中世1』に収録する文書について、昨年度から情報の整理・史料調査などを進めています。これまでのところ、15の文書群について調査を終了しました(6月23日現在)。これからますます調査のペースを上げていく予定です。
 史料調査を行う際には、まず1970年代から80年代にかけて福岡県や福岡市が実施した古文書等緊急調査の成果をベースに、古文書の現所蔵者の確認を行います。ところが、すでに30年近い前の情報ですので、所蔵者が代替わりしていたり、現住所が変わっているのはよくある話です。中には明治時代頃の所蔵者しか分かっていない文書もあり、そこから当時の所蔵者のご子孫を捜し出して連絡をとるのはかなり難しい作業です。先日、そんな作業のすえに、一つの文書所蔵者のご子孫が判明したときは、それまでの苦労が吹き飛びました(残念ながら、その古文書自体は散逸していたのですが)。そうした地道な作業も積み重ねながら、編さん作業を進めています。

(4) 近世専門部会
 近世専門部会では、平成18年度から収集した資料の筆耕をはじめます。ご存じのように、この時代の文字はおもに「くずし字」、現在でいう草書体で書かれたり刷られたりしており、現在の我々にはとても読みにくいものです。筆耕は、くずし字解読の知識のもとに、資料の字を楷書体に直していく作業です。
 ただ同時に、江戸時代の福岡に関する歴史的な知識や用語に関する知識もあわせて必要になってきます。さらに困ったことに、書かれた時期や人によって、書きぐせや字体も違うため、一日かけても多くは読めない資料もあります。
 このような作業の積み重ねの成果が、専門部会によって近世の資料編へ収録される資料に選ばれたり、通史編を書くための資料として活用されるのです。
写真:近世~明治期に書かれた書冊(2冊)を見開きで写したもの。どちらもくずし字で書かれており、手紙や書状などの文例が書かれている。片方には挿絵や頭注なども付されている江戸~明治時代のくずし字文例集

(5) 近現代専門部会
 近現代専門部会では、過去に編さんされた『福岡市史』の調査を行っています。この『福岡市史』は、明治22(1889)年市制施行以降の歴史を、行政を中心に編さんした「行政史」であるとも言えます。今回の市史編さん事業では、前回の『福岡市史』よりもさらに広い視野で近現代史を描いていく計画を立てていますが、そのための準備作業の一つとして、この『福岡市史』に収録されている史料をリストアップしています。
 過去に編さんされた『福岡市史』には、当時の新聞記事や行政資料がふんだんに引用されています。例えば、明治編・大正編それぞれに600件以上の史料が引用されており、市史の叙述に厚みをもたせています。その一方で、これらの引用史料の存在が、『福岡市史』に市史編さんの基礎的な資料集としての一面を与えています。先人の業績を継承しつつ、今後の市史編さんに活用されてゆくことになると考えています。
写真:旧『福岡市史』の1巻2巻を並べて背表紙を写したもの。A5判、海老茶色のクロス貼り、題字は金の箔押し。2冊とも1000頁を超す分厚い書籍である。旧『福岡市史』の第一巻明治編、第二巻大正編

(6) 民俗専門部会
 民俗専門部会では、平成21年度に刊行される特別編に向け、現在、資料調査や聞き取り調査を実施しています。
 民俗専門部会で扱う資料は、明治から昭和にかけて福岡で発行された大衆雑誌・新聞などで、生活に密着したこれらの資料からは、当時の流行や習俗、また福岡の各地域の変遷をうかがい知ることができます。また、さまざまな形で働く人々を対象に、昭和30~40年代の仕事と暮らしをめぐる聞き取り調査を進めています。
 個人の歴史とことばと写真からなる『特別編 現代絵巻・福岡』(仮称)。福岡をより身近に感じられる図鑑を目指し、魅力あふれる街・福岡の人と暮らしをひもとく端緒となるよう、さまざまな角度からの試みを続けています。
写真:東長寺の境内で、節分祭が行われている様子。留学生2人が扮する赤鬼と青鬼が、子供たちに囲まれている。鬼2人はそれぞれ赤と青の鬼面を被り、黒い金棒を持っている2006年2月3日に行われた東長寺(博多区)の節分祭

5. 歴史万華鏡【1】 福岡と博多、どっちがあなたの名前?

「福岡市史というけれども、歴史は苦手、難しい」と思われる方々、また福岡市以外にお住まいの方々のための、福岡市域の歴史のミニ解説コーナーです。
 福岡市域の歴史の豊かさ、多様さは、あたかも万華鏡といっても過言ではありませんが、とりあえずその大きな流れを知るためには「博多」と「福岡」、この2つの地名がキーワードです。
 博多は古代からある地名で8世紀には記録に出てきます。もともとは湾内沿岸一帯と、そそぎ込む川の流域も一部含むような広い地域を指したそうです。たぶん、外海からくる船の停泊地は何か所もあったのでしょう。そもそもの「ハカタ」の語源は、そのような地形にあるといわれます。その後、中世に国際的な貿易の中心として都市部分が発達すると、特にそこを指す地名になってきました。
 一方の福岡は、ずっと下って近世のはじめ、初代福岡藩主黒田長政が博多の西隣に新しく城郭と城下町を作る際に、黒田氏の先祖ゆかりの地である備前福岡(びぜんふくおか)(現岡山県瀬戸内市長船(おさふね)町)にちなんで付けた名前です。その結果、藩政の中心である福岡、商業・流通面で全国的に名の通った博多がそれぞれ那珂川を挟んで存在し、全体で黒田氏の城下となっていました。
 明治4(1871)年になって、藩から県にかわり福岡県が生まれましたが、福岡の町自体は少し寂れました。しかし同22年に市制が施行され、市名を決める際、市会で福岡派と博多派が争い、1票差で福岡に決まった話は有名です。もちろん博多は福岡市内の地名のほか、市の中心駅の名前として残り、また現在も全国に知られています。
 福岡市はその後現在まで周辺市町村を合併して、昭和47(1972)年には政令指定都市になり、博多は区となりました。このように2つの地名とその中味の変遷は、実は現在の福岡市域の歴史を象徴していると言えるのではないでしょうか。

※上記事に誤りがございました。お詫びして訂正いたします(2020年9月11日)

【誤】しかし同22年に市制が施行され、市名を決める際、市会で福岡派と博多派が争い、1票差で福岡に決まった話は有名です。
【正】しかし同22年に市制が施行され、市名が決まった後も、市名の変更をめぐって市会で福岡派と博多派が争い、1票差で福岡に決まった話は有名です。

写真:福博であい橋の親柱を、那珂川の西側(天神側)から東側(中洲側)に向けて写したもの。日中の撮影で、橋の欄干の向こうに中洲のビルの屋上広告が並ぶのが見える那珂川にかかる福博であい橋

7. 編さん室だより

 市史編さん室が福岡市博物館内に設置されて、今年度で3年目を迎えました。
 少しずつではありますが、市史編さんに向けてスタッフ・設備とも整ってきています。
 今年度は編さん室に各専門部会を担当する専門の職員が新たに2人増えました。これにより、すべての部会に専門知識をもつスタッフがつく事になります。それぞれ自身の研究で培った専門知識を市史の調査活動でも発揮して、より良い市史を作っていきたいと思います。
 部会だよりにもありますように、各専門部会とも福岡市の内外を問わず、活発に調査を行っています。調査の成果は市史の編さんに反映されるのはもちろんのこと、市民のみなさんにも活用していただけるよう、今後整理を進めてまいります。みなさんに親しみをもっていただける編さん室になるよう、努めていきたいと思います。

8. 編集後記

 市史だよりの第3号をお届けします。おなじみのコーナーもあれば、新しく始まった特集や連載もあります。これからも紙面を通じて、市史編さんにまつわる情報や歴史のこぼれ話をお伝えしていきたいと思っています。
 市史だよりがお手許に届く頃は、梅雨に飽きて夏が待ち遠しい頃でしょうか。花火とかき氷が楽しみです。

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