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市史だよりFukuoka

「市史だより Fukuoka」第2号 (HTML版)

0. 表紙・目次

「市史だより Fukuoka」第3号 表紙画像
1. 民俗探訪「八兵衛地蔵から街の息づかいに迫る」 民俗専門部会専門委員 西村明
2. 福岡市史研究会報告「福岡城をめぐって ~修復の記録が語る時代像」 福岡市博物館学芸員 高山英朗
3. 連載「福岡市史への歩み 1」 福岡市博物館顧問 田坂大藏
4. 表紙の写真は…
5. 西谷正 「市史に期待する」
6. 部会だより
7. 福岡市史の巻構成
8. 編さん室だより
9. 編集後記

1. 民俗探訪「八兵衛地蔵から街の息づかいに迫る」 民俗専門部会専門委員 西村明

 みなさんは八兵衛地蔵をご存じですか?
 中央区の唐人町商店街を西に通りぬけて、しばらく歩いたところに成道寺という浄土宗の寺院があり、八兵衛地蔵はその境内にあります。「地蔵」というにはどっしりとしたその風貌が見る人の目を引きつけます。福岡市にはほんのわずかの期間しか住んだことのないわたしがその存在を知ったのは、実はつい最近のことです。それは、昨年から始まった市史民俗編の調査のために、市内の各所で行われている無縁(むえん)死者の儀礼(供養)の実態に迫ろうとしていたときのことでした。
 8月23日前後には日本じゅうの多くの地域で、施餓鬼(せがき)会や地蔵盆(じぞうぼん)として無縁死者のための儀礼がおこなわれています。ここ福岡・博多の街でも中洲の飢人地蔵や大浜の流灌頂(ながれかんじょう)など、特色ある行事が数百年も続けられています。わたしが今回、調査の第一歩をこのような無縁死者の儀礼からはじめようとした動機は、見ずしらずの、あるいは縁故のない死者たちを捨てておけないという思いを、幾年月もこえて受けついできた福岡・博多の街の人びとの気概が、わたしの心の琴線にふれたからなのです。
 それで、無縁死者の儀礼の実態を把握しようと図書館の郷土資料を繰っていたときに出会ったのが、八兵衛地蔵でした。さっそく唐人町へ向かい、そこでいろいろな方にお話をうかがうことができました。
 八兵衛地蔵の建立には次のような由来があります。――元禄(げんろく)7(1694)年の末、須崎で大火があり、各町から町火消しが出動した。火事そのものはまもなく鎮火したが、唐人町と某町の火消し同士が乱闘をはじめ、その結果、相手方に三人の死者を出すまでとなる。翌日、町奉行から下手人を出すよう言われ、唐人町の人びとは困り果てた。それはちょうど、肥後(ひご)の浪人森八兵衛が父親を探しに唐人町まで来たが、成道寺の週去帳に父の戒名を見つけ、失意のうちに孤独に暮らしていたときのことであった。八兵衛は、町の人びとに自分が身代わりに出頭することを告げる。その申し出にはじめ町の人たちは戸惑うが、本人の意志の堅さに山を動かされ、後世の弔いを絶やさないことを誓った。――そうして、彼の処刑の後に建立されたのが、この八兵衛地蔵というわけです。(唐人町中年会「義人八兵衛地蔵尊の由来」より)
 八兵衛地蔵の夏祭りは、唐人町中年会が主催しています。青年団でさえ地域社会におけるその活動が目立たなくなっているこの時代に、唐人町には江戸時代からつづく中年会組織が活動しているのです(以前は中年会より若年層の「唐若会」という若者組もありましたが、こちらは戦後に消滅しています)。唐人町中年会は唐人町商店街裏の八橋神社を財産区として管理し、2月初の初午祭と8月末の八兵衛衛地蔵と馬頭観音(ばとうかんのん)の夏祭りを主催しています。
 この八兵衛地蔵と馬頭観音の夏祭りは、別名「唐人町消防夏祭り」と言われています。それは八兵衛地蔵の由来に町火消しの一件がかかわっているからだということは、容易に想像がつきます。祭りのなかでとくに目を引くのが、中央消防団の7つの分団によるまとい振りと消防太鼓の奉納ですが、つい2年ほど前までは博多消防団のはしご乗りも奉納されていました。また20年ほど前までは、西区あたりからもさっそうと消防法被を着た800人からの消防団員の参拝があったといいます。
 スタイルこそ変化していますが、消防団がこうやってずっとかかわりを持ち続けてきているということに、わたしは素直な驚きを隠せません。八兵衛さんへの年月をこえた感謝の気持ちと、地域の人びとの生活や命を守るために地道に活動を続けることとが、どこか根っこのところでつながっているのだといえるのかもしれません。
 こうして、八兵衛地蔵を入り口とすることで、中年会や消防団といったこの街に暮らす人びとの宣活を陰でサポートする営みへと、わたしの調査範囲も深められてきました。これからも、この街の息づかいに迫るために、人びとの立ち居振る舞いに目を見聞き、その語りに耳を傾けつつ、広く、深く、歩き回りたいと思います。

 さて、それではまた、街のなかへ出かけてくるとしますか! (にしむら あきら 鹿児島大学助教授)
写真:中央区唐人町の成道寺境内にある八兵衛地蔵 小堂の中に祀られた数体の仏像のうち中央に鎮座する地蔵像で、石造の座像であり、赤い前掛けを掛けている八兵衛地蔵

写真:唐人町消防夏祭りにおける消防団のまとい振りの演技。当仁、草ヶ江など、中央消防団の分団名の書かれたまといが見える纏振り

2. 福岡市史研究会報告「福岡城をめぐって ~修復の記録が語る時代像」 福岡市博物館学芸員 高山英朗

 慶長5年(1600)10月、関ケ原合戦の戦功により筑前(ちくぜん)国一五郡(怡土(いと)郡西部を除く)を与えられた黒田長政(くろだながまさ)は、当初、小早川隆景(こばやかわたかかげ)が築城した名島城に入った。しかし、名島城は城下が狭小なため、新しい城地を那珂(なか)警固(けご)村近くの福崎の地に定め、翌6年から築城に取り掛かった。この地は、黒田孝高(よしたか)如水(じょすい))の曾祖父黒田高政(たかまさ)、祖父黒田重隆(しげたか)の所縁の地である備前(びぜん)邑久(おく)郡福岡(現岡山県瀬戸内市長船(おさふね)町)から福岡と名付けられ、城は完成までに7年の歳月を費やした。
 以上が、福岡城築城の概略であるが、来年福岡城は完成から400年を迎える。福岡城と言えば、とかく天守閣の存在の育無に話が及ぶが、この問題は天守閣が破却されたという元和(げんな)6年(1620)当時の幕藩関係や黒田家が、如何なる立場におかれていたかという政治史的側面から検討するとともに、文献史学に限らず考古学など様々な見地から検討すべき問題である。この話題はひとまず置いておいて、今回は江戸時代の城郭(じょうかく)修復について記したいと思う。
 江戸時代、幕府は諸大名の城郭に対し様々な規制を加えているが、中でもよく知られているのは、元和元年(1615)(うるう)6月13日に発せられた元和の一国一城令である。これは、おもに西国大名に対し居城以外の城郭の破却を命じたものであるが、福岡藩では豊前(ぶぜん)国との国境を中心に存在していた六端(ろくは)城を破却している。また、寛永(かんえい)12年(1635)6月発令の武家諸法度(ぶけしょはっと)第三条(以下、寛永十二年令と略記)は、新規築城の禁止、居城の堀・土塁・石垣が破損した場合は老中に伺い出て修復の許可を得ること、櫓・塀・門が破損した場合は元の通りに修復すべきことを規定したものである。この規定は幕末まで継続して適用され、幕府の城郭統制の基軸となった。
 この寛永十二年令により天災や老朽化によって破損した居城の堀・土塁・石垣の修復を願い出る際、諸大名は普請(ふしん)箇所を書き上げた修補願と、蓄請箇所を朱引(しゅび)きで明示した城絵図(修補許可願絵図)を幕府へ提出した。とくに城絵図は下書きや控を含め、一度の許可申請で5枚の絵図が作成され、福岡藩でも明暦(めいれき)2年(1656)に修復普請を願い出た際の絵図を後世写したものとされる「慶長御城廻御普請御伺絵図(けいちょうおしろまわりごふしんおうかがいえず)」(福岡市博物館所蔵)や、佐藤恭敏家文書(春日市教育委員会所蔵)にも修復普請関係の絵図がいくつか残されており、修復箇所や破損状況を詳細にうかがい知ることができる。
 また、『黒田家譜(くろだかふ)』にも福岡城の修復に関する記述が散見され、石垣の修復だけでも江戸時代を通じて23回も幕府から許可を得ていることが知れる。天災によって破損することも多かっただろうが、土圧や水圧によって石垣が自然と孕み出し、修復が必要となったケースもあったと考えられる。このように、江戸時代を通じて絶えず修復は行われており、前述した幕府の規定が厳格に守られ、修復もごく楕にしか許可されなかったという従来の城郭のイメージとは大きく異なる。福岡城の歴史を考えるとき、現存する城絵図などを用いて実際に行われた個々の修復について検討し、城が如何に維持され、変遷してきたかを追うことは非常に重要であると考える。(たかやま ひでお)
画像:慶長御城廻御普請御伺絵図。福岡城の見取り図とその周辺の堀の様子が細かく描かれている。堀などの水域は群青色、街路は黄色で塗られており、さらに橋の寸法など細かい朱書きがあり、色鮮やかである「慶長御城廻御普請御伺絵図」(福岡市博物館所蔵)
福岡城の破損状況をうかがわせる絵図。慶長期に完成した城を、明暦期になって修復を幕府に願い出るときに作成された。しかし、現存する絵図そのものは後世の写とされる。

3. 連載「福岡市史への歩み 1」 福岡市博物館顧問 田坂大藏

 福岡市史編さん事業が始まりました。市史編さんを待望していた一人として、誠に喜ばしい限りでありますが、同時に、現今の厳しい財政状況にもかかわらず、本市の歴史を纏めることの重要性に思いを致してくれた首脳陣に、深く敬意を払うものであります。福岡と言う、国内では他に比較する地域がない程の、重要で数多くの歴史事象に彩られた都市の足跡を辿る一大事業がはじまったのです。そのためには、この編さん事業は長年月掛かるでありましょうし、従って多くの人材、費用を必要とすることが容易に考えられるのです。一層心を引き締めて掛からねばならないと考えています。
 この編さん事業そのものが本市にとっての歴史であります。そのため詳細な公式記録が記録され公表されていくでしょうが、それとは違って、より卑近な事柄も後世に残しておきたいと考えています。まさに稗史(はいし)を記しておくことも必要だと考えているわけです。これから何回かにわけて、市史をめぐる様々な事々を記していきますが、本稿はあくまでも筆者の主観に基づいたものであって、編さん事業の公式記録とは一線を画すものであることを最初にお断りしておきます。
 福岡市と市史との関わりについて先ず辿ってみましょう。
 本市では昭和30年代から都市化が進み、それに伴って公的な埋蔵文化財発掘調査が必要となってきました。最初は国や県主導による文化財行政でしたが、次第に福岡市が独自性を発揮し始めたのは昭和40年代からと考えられます。つまり福岡の歴史風土を踏まえた文化財行政の必要性が増してきた訳です。換言すれば市史の必要性が出てきたと言うことです。
 しかしながら結論的に云うと、その当時は福岡の原始古代から現代までを見通す市史は編さんされていなかったのです。口の悪い文化財行政の先達が、うがった見方を教えてくれました。曰く「福岡市は手近に九州帝国大学の史学科があったため、困った時には福岡県史を捲るか、九大の先生に頼めば何とかなってきた」というものでした。誠に妙に納得できる言葉として受け止めたことでした。
 昭和47年、福岡市は政令指定都市に昇格し、更に文化財行政を円滑に行うため福岡市文化財保護条例の制定が行われ、いよいよ行政の独立性、独自性を示していくようになります。必要性に迫られて、役所の書棚に並ぶ、金文字入りの『福岡市史』を(ひもと)いてみますと、その内容は、対象となっている時代は明治期市制施行以降の、主に行政史として纏められたものでした。そして昭和編が編さん途中という状況だったのです。これでは古い文化財の歴史的背景を理解することは出来ません。
 それでは市内部では、原始以来の本格的「市史」編さんは必要視されてこなかったのかというと、実はそうとばかりは言えない実情でした。次回は福岡市の市史への対応を概観してみましょう。(たさか だいぞう)
写真:板木に「福岡市史編さん室」と墨で書かれた看板。実物は縦1メートル、横20センチメートルほどの大きさである 市史編さん室の看板。かつての市史で使われた。今回も編さん室の入口にかかっている。


4. 表紙の写真は…

 市史編さん室では、福岡市史編さんの基礎となる資料収集の一環として、福岡市博物館所蔵の「住吉堤防増築創立画集(すみよしていぼうぞうちくそうりつがしゅう)」を、マイクロフィルムで撮影しました。この資料は、明治25年から26年にかけて、博多商人八尋利兵衛(やひろりへえ)などの発起で、那珂郡住吉村(現在の博多区住吉一、二丁目)の那珂川沿いの堤防を広げ、桜や柳などの並木を植え、東京の向島(むこうじま)を手本とした公園にしようとした事業に関係するもので、書類、新聞切り抜き、図面などの資料が、約50件も貼り附けられており、長さは11メートル近くに及びます。
 その巻頭に貼られているのが表紙のこの絵「高砂橋の図」で、橋のたもとの堤防の、桜や柳などの並木に固まれた公園で宴会を楽しむ男女が描かれています。三昧線を弾く人、手ぬぐいを頭にかぶり扇を片手に踊る人、手拍子をたたく人、お酒を酌み交わす人、(にわか)面を附けた人、と様々です。
 公園造成の間、博多相生(あいおい)町の芸者衆や、高砂連と称した長寿者達の増築堤防への砂運び、あるいは高砂連や博多魚市場組合から寄付された橋(高砂橋と魚市橋)の渡り初め式、といった様々なイベントがあり、そのたびに博多や福岡などから多くの人が集まり、あたかも箱崎の放生会のようなありさまで、総出でにぎわったといわれます。この絵はその様なにぎわいの一こまを描いたものでしょうか。
 この土手公園も、明治後半期からの急激な都市化・近代化で影を失い、現在ではかつての景観は失われています。しかし残された絵からは、かつてのざわめきや博多の唄が聞こえて来るようです。
画像:高砂橋の図 博多商人の八尋利兵衛は、明治半ばに那珂川沿いの堤防を拡張し、東京の向島を参考に並木を植えて公園として整備した。この福岡にできた向島ではさまざまな催しが開かれた。画像もその光景を描いた図で、高砂橋のたもとの広場で人々が宴会を開き、三味線を弾いたり踊ったりする様子が描かれている「高砂橋の図」(福岡市博物館所蔵「住吉堤防増築創立画集」より)

5. 西谷正 「市史に期待する」

考古掌の専門家として多くの自治体史編さんに関わってこられた西谷正先生に、資料保存や文化財保護と自治体史の役割、そして世界と市民を意識した編さんへの期待を語っていただきました。
 福岡市は、アジアに開けた交流拠点都市として大きな発展を遂げ、その繁栄ぶりは国内外から注目されてきました。21世紀に入ったいま、さらなる発展を目ざして、その方向性の指針になるのが市史ではないでしょうか。その意昧でも、市制百二十周年という福岡市の歴史の一つの節目に当たる平成21年度に第1巻が発刊される意義は大きいですし、その日を心待ちしたいと思います。また、市史によって、福岡市の輝かしい歴史を知り、その遺産である各種の文化財に触れることができるのは、市民として大きな喜びであり、その結果、郷土に対する愛着をも育むことになりましょう。このたび編さんされる市史は、たとえば文章表現一つをとってもわかりやすく、そして、ビジュアルで情報技術(IT)なども駆使されますので、きっと市民に広く親しまれるものにでき上がると信じるとともに、大いに期待もしています。
 ところで、市史編さん事業は、いってみれば、そのこと自体が学術・文化の活動です。永い歴史をもつ福岡市のことですから、歴史史(資)料の調査と収集の過程で、どんなに貴重かつ重要な発見があるかもしれません。いまから期待感で胸がわくわくときめきます。そのためには、市史づくりが市民一人一人にとっても大切なものであることを自覚し、調査・収集に当たられる先生方に、積極的に協力したいものです。
 そこで、市史編さん室の皆さんにお願いしたいことは、収集資料の内容や調査・研究の成果を、刻々と市民に情報発進していただきたいと思います。本広報誌『市史だより Fukuoka』もありがたいですが、たとえば、『市政だより』の一部分を市史だよりのスペースとして割いてもらい、大いに広報に努めていただけないものでしょうか。
 さきほど、福岡市の歴史遺産としての各種の文化財のことにも触れました。福岡市民はもちろん、大げさにいえば、人類共通の遺産である文化財は、調査研究の上、大切に保存・活用をはかられねばなりません。この分野については、福岡市の教育委員会が担当しています。各種文化財のうち、埋蔵文化財に関しては、開発工事に伴う緊急性などから、比較的充実した対応がなされてきました。しかしながら、その陰で、文献史料・民俗資料・建造物や美術・伝統工芸などなど、充分な対策が打たれていません。そこで、市史の史(資)料の調査と収集の過程で得られた重要なものに対して、市の文化財に指定し、保存をはかる方向で、文化財保護行政にも活用されてはいかがでしょうか。市史の編集方針によると、自然環境や景観などの変遷の中に、地域の歴史的世界を位置づけることを目ざすといわれます。これは、とても大事な視点と思います。一昨年の国の文化財保護法改正の要点は、文化的景観の新たな制定と、登録文化財の拡充でした。福岡市でも、国の法改正に整合させるべく条例改正を行うべきでしょう。そこで、たとえば、三瀬街道とその街並みとか、戦時における庶民の日常的な生活道具なども市史で取り上げていただくとともに、それらをもまた、文化財保護行政に連動していただきたいと思います。
 なお、編集方針によれば、福岡市史は現在の学会の水準を凌駕し、学問的な批判に耐えうる内容のものとするといわれます。もちろん、そうでなければなりませんが、その結果、一般の市民にとっては近寄り難い場面が出てくることも予想されます。そこで、福岡市史では普及版通史も計画されています。ぜひとも将来的には、小学校高学年に目線を合わせたダイジェスト版が作成され、合わせて学校教育の現場で副読本としても使えるものを刊行して欲しいと思います。
 また、東アジア主体から見た福岡市史を目ざされる点は、大きな共感を貰えます。その点で、外国人にも容易に理解され、親しんでいただくべく、外国語版通史(普及版)が予定されていますが、少なくとも韓・中・英版は欲しいものです。
 このほど計画された福岡市史が、福岡市にとって有史以来の大事業の一つといって過言でないだけに、期待や注文がふくらむばかりです。直接、編さんに当たられる関係者の皆さんのご健闘を山からお祈りしています。

にしたに ただし
伊都国歴史博物館館長・韓国伝統文化学校招聘教授・九州大学名誉教授。福岡市史編さん委員会顧問。共編書の『小郡市史』全7巻(小郡市)や『日本古代史大辞典』(大和書房)などがある。
福岡市史編さん委員会顧問 西谷正 顔写真 福岡市史編さん委員会
顧問 西谷正

6. 部会だより

(1) 考古専門部会
 平成17年度の考古専門部会の動きについて報告します。遺跡を中山にして、福岡の歴史を原始から近現代に至るまでを叙述し、ビジュアルな構成により市民に親しみやすい市史とするには、文献資料を調べるより、各専門委員が実際に調査を行うことが、より重要になります。
 調査範囲は非常に幅広く、専門委員や調査補助員が、予測されるあらゆる範囲を探し出し、調査する事により、次第に博多の歴史が判ってきます。
 出土品の「動物遺存体」を調べて、猪(野性)と豚(飼育)の区別が付くと食料の歴史が解り、出土品の古銭を調べて、流通の時期が判るなど思いもよらぬ結果が解ります。
 さらに、遺跡情報にGIS(地理情報システム)を活用して地形の変化を追ったり、福岡市から流出した資料を探したりと、様々な調査方法が有ることが判ります。
 また、特別編については、その構成についての議論が深まっているところです。

(2) 古代専門部会
 古代専門部会では、埋蔵文化財センターで、保存のため科学的に処理された、鴻臚館出土の木簡のうち、文字の書かれている木簡約10点を調査しました。一つの木簡に墨で書かれている文字はわずかに一、二字から十字程度、しかもいずれも墨がかすれ、中には肉眼ではほとんど見えないものもあり、もともと字の一部が欠落しているものもあります。それを赤外線カメラで写して、すぐにパソコン画面に投影しながら、しかも専門の知識を駆使して、6人の専門委員が色々と意見を出し合い、1点に1時間もかけて読解する作業です。
写真:モニタなど機材の置かれた一室で、数人の調査員が、木簡に赤外線カメラを当てた画像を確認している。モニタにはうっすらと木簡の画像が映し出されている古代専門部会の史料調査風景
右の画面に見える白い部分が木簡

(3) 中世専門部会
 中世専門部会では、現在、平成21年度に刊行予定の資料編第一巻の編さん作業を急ピッチで進めています。資料編第一巻では、福岡市内に所在する中世文書を収録する予定です。
 今年度は収録文書を確定するための作業、市内外の史料収蔵機関(九州大学附属図書館付設記録資料館九州文化史資料部門、福岡県地域史研究所、東京大学史料編纂所)などで文書群の情報収集、および個人所蔵の史料調査などを行いました。西区の個人宅での史料調査では、中世文書原本の調査・撮影と共に、近世以降に作成された記録なども調査しました。その中に原本が失われており未紹介の中世文書の写が含まれていることがわかりました。こうした写も、原本が寄在しない場合は特に貴重な史料となります。中世文書の調査といっても、近世・近現代の史料も含めた古文書所蔵者のお宅に伝わる史料全体を把握した上で、史料調査をする必要があります。

(4) 近世専門部会
 近世専門部会では現在資料収集のためデジ力メ撮影の作業に入っています。従来、近世文書などの調査は、マイクロフィルムなどの撮影が主流でしたが、近年は調査方法の一つとして、デジタルカメラの使用が盛んです。利点は、フィルム等が撮影のたびごとに必要ないこと、撮影機材が軽量で持ち運びが便利であること、撮影画像がパソコン等で即座に見られること、などです。ただしマイクロカメラと違い、デジ力メ、パソコンは扱いがデリケートで、状況に応じた撮影方法を習熟する必要があります。また撮影データの長期保存は、フィルム保存と違って注意を要する面もあり、今後の課題です。
写真:「嘉永元年御参勤御道中日記」という近世期の文書の表紙。虫損があるものの外題に書かれた文書名ははっきりしている「嘉永元年御参勤御道中日記」(福岡市博物館所蔵) 写真:「嘉永元年御参勤御道中日記」という近世期の文書の中身。見開きの丁の右側には「黒田家収蔵古文書」という朱の印が押されている「嘉永元年御参勤御道中日記」(福岡市博物館所蔵)
デジタルカメラで撮影された資料。従来の白黒印刷では判明しにくかった表紙や印章等の色がわかり、より調査・研究に役立ちます。

(5) 近現代専門部会
 近現代専門部会は、福岡市議会に提出された議案のデータベースを作成しています。市議会における議論は、福岡市の変遷を知ることのできる手掛かりの一つとして、近現代編執筆にはどうしても欠かせないものです。福岡市総合図書館には市制施行以来の市議会の議事録が収められ、誰でも閲覧できるよう整備されています。しかし、その分量は壁一面を覆うほど膨大なものですから、議案名が検索できる簡便なものとしてデータベース化を進めています。福岡市では、過去の事業において明治・大正期の議事目録を作成しました(「福岡市史明治資料編」『同大正資料編」収録) 。今、明治・大正期の目録校訂作業と昭和期の目録作成に取りかかっています。地味な作業ですが、将来の「土台」となるべく、着実に進行しています。
写真:市史編さん室内で数人の調査補助員がパソコンに向かってデータ入力などの作業をしている風景編さん室での作業風景

(6) 民俗専門部会
 民俗専門部会では、民俗編3巻、特別編1巻(「ひとと人々」「夜と朝」「春花秋冬・起居住来」「現代絵巻・福岡」)を刊行予定です。そのうち「現代絵巻・福岡」は、『福岡市史』のトツブを飾り平成21年度に刊行される予定です。この「現代絵巻・福岡」は、『ひとと人々』を中心とした他の巻のビジュアル版として、福岡に住むひとびとの仕事と暮らしの図鑑であり、昭和30年代から40年代について、聞き取り調査をした人々から得た魅力的な言葉と叙述と写真を1ページずつの見聞きで構成されます。
 このため、民俗専門部会では、飲食業に携わる人々や消防分団の方々などからの聞き取りを始めとした、様々な調査活動を実施しています。
 この「市史だより Fukuoka」を御覧のみなさんのところにも、民俗専門部会から調査にうかがうことがあるかもしれませんが、その際はどうかご協力をお願いいたします。

7. 福岡市史の巻構成

 左の表(HTML版注:下の福岡市史 巻構成一覧を指す)は福岡市史の巻構成です。編さん委員会における議論を経て作成されました。なお、各編の構成及び刊行年次については、資料の収集、調査研究の進捗状況により計画的に見直しを行うことになっています。
 各巻の具体的な内容は、現在担当専門部会で編集が進んでいますが、全体は通史編・資料編・民俗編・特別編に区分され、計35巻を刊行する計画です。そして刊行のトップを切るのは、平成21年度刊行予定の「資料編中世こと特別編「現代絵巻・福岡」です。「資料編中世一」は中世博多の歴史を知るための手掛かりとなる古文書を整理してまとめたものです。一般に「歴史」と聞いて思い浮かべる記述のスタイルはいわゆる「通史」にあたりますが、この通史を編集するためには、既に書籍として出版されている資料から知る人もなく眠っている資料まで、可能な限り集めることで深みのある歴史が描かれます。集めた資料のなかから、特に重要なものが選ばれて「資料編」として活字となり、刊行されるのです。現在、中世専門部会では収集と編集が併行して行われています。
 全体を見渡しても、資料編は編さん期間の半分近くもの時間をかけて、編集、刊行されます。また通史編の刊行は平成32年度以降になる見込みです。
 特別編「現代絵巻・福岡」は、現在の福岡を記録しようとする試みです。民俗専門部会は、福岡の都市生活に入り込んで、そこで日々生きている人びとに真剣なまなざしを注いでいます。これまでの自治体史の枠に収まらない民俗研究の成果をお見せできると思います。
 その他の特別編も、原始から現代までの福岡の興味深いトピックを取り上げて、工夫を凝らしながら、読者が楽しめる市史の編さんを目指しています。

福岡市史 巻構成一覧
  • 通巻01 通史編 考古
  • 通巻02 通史編 古代
  • 通巻03 通史編 中世
  • 通巻04 通史編 近世1
  • 通巻05 通史編 近世2
  • 通巻06 通史編 近世・近代(幕末・維新~明治10年)
  • 通巻07 通史編 近現代1
  • 通巻08 通史編 近現代2
  • 通巻09 通史編 近現代3
  • 通巻10 資料編 考古1
  • 通巻11 資料編 考古2
  • 通巻12 資料編 考古3
  • 通巻13 資料編 古代1
  • 通巻14 資料編 古代2
  • 通巻15 資料編 中世1
  • 通巻16 資料編 中世2
  • 通巻17 資料編 中世3
  • 通巻18 資料編 近世1
  • 通巻19 資料編 近世2
  • 通巻20 資料編 近世3
  • 通巻21 資料編 近世4
  • 通巻22 資料編 近現代1
  • 通巻23 資料編 近現代2
  • 通巻24 資料編 近現代3
  • 通巻25 資料編 近現代4
  • 通巻26 民俗編 ひとと人々
  • 通巻27 民俗編 夜と朝
  • 通巻28 民俗編 春夏秋冬・起居往来
  • 通巻29 特別編 現代絵巻・福岡
  • 通巻30 特別編 環境変遷と福岡市の歴史(古代景観復原付)
  • 通巻31 特別編 福岡城
  • 通巻32 特別編 図録・近現代福岡の美術と文学
  • 通巻33 特別編 対外交渉
  • 通巻34 特別編 地図・絵図
  • 通巻35 特別編 年表・総目次・索引

8. 編さん室だより

 今号の読み物「八兵衛地蔵から街の息づかいに迫る」は、民俗専門部会の調査記録の一つであり、「福岡城をめぐって」は昨年12月に行われた近世専門部会研究会での発表を基にしています。福岡市史編さん事業計画が決定されたことにより、平成21年度の第1回刊行を目指して、各専門部会の活動も活発になりました。
 部会によっては既に市外ヘ調査の手を広げております。資料を収蔵している公共機関はもちろんのこと、一般宅へもおうかがいして貴重な資料を拝見させていただいております。民俗専門部会は今号の唐人町をはじめ、さまざまな場所でさまざまな方々のお話しをうかがっています。福岡市史編集委員会から調査におうかがいしたさいは、なにとぞご協力いただきますよう、お願い申し上げます。
 市史編さん事業では、様々な記録等の調査・収集を行っていきたいと考えています。お心当たりの節は、お気軽にお問い合わせください。

9. 編集後記

 「市史だよりFukuoka」の第2号をお届けします。今回は読み物を4つお届けしました。いずれも、福岡市の現在と歴史と未来に関するトピックです。いささか古めかしい言葉ですが、「温故知新」を感じ取っていただけれぱ幸いです。(S)

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