(よかとこ情報探検隊のやっちゃんによる取材記事 取材日:令和7年1月26日)
全国を平定した豊臣秀吉は朝鮮出兵に向け肥前鎮西(現在唐津市)に名護屋城を築城しました。 その際、博多から名護屋城まで秀吉が通った道が「太閤道」と呼ばれ その道が今も生活道路としてと使われています。
城南区の六本松から別府駅前、別府交番の裏を通り、城南学園通りを横切り、中村学園の裏、城南中学校の北側、末永文化センターの北を通り、坂を上って早良街道の荒江逢坂に至る。ここまでは城南区の「太閤道」です。
街道荒江逢坂の信号、ここからが早良区の太閤道です。
真ん中の細い道が太閤道。
太閤道は原小学校東の信号手前で202号線に合流します。
202号線と合流した太閤道は原交差点まで並走します。
原交差点
原交差点より東方向(別府方面)
原交差点までやってきた太閤道はここでルート1「大原・南庄・小田部~室見川→西区役所→車両基地→下山門→生の松原・・・名護屋城」、ルート2「小田部橋→西福岡中学校東→小田部西→福重橋→JA壱岐農協→西区役所→車両基地→下山門→生の松原・・・名護屋城のに分かれます。
ルート1、ルート2の詳細については次回報告いたします。
「よかとこ情報探検隊」は、ボランティア隊員が地域の名所・旧跡やイベントなどの取材活動を行っています。