現在位置:福岡市ホームの中の早良区の中の早良区 彩食健美の玉手箱の中のさわらの観光の中のよかとこ情報探検隊の中のよかとこ情報探検隊(歴史(神社仏閣・遺跡))から西新元寇防塁・百道元寇防塁(2024)

西新元寇防塁・百道元寇防塁(2024)

 (よかとこ情報探検隊のやっちゃんによる取材記事 取材日:令和6年4月17日)





ことしは元寇(文永の役)から750年目となります。
早良区には元寇にまつわる遺構が多数ありますので、前回に引き続き第二回目の元寇の遺構を報告します。


史跡

県立修猷館高校の校庭の南西端の明治通り沿いに「史跡元寇防塁 入口」の碑があります。
この交差点を北へ西南学院大学方向に向かいます。


交差点

修猷館高校と西南学院大学の境の交差点の西側の松林の中に、国指定史跡西新元寇防塁があります。


防塁

 案内板によると、モンゴル帝国の五代皇帝フビライは、国名を"元"と改め、日本に使者を送り通交を求めました。
しかし鎌倉幕府がこれに応じなかっため、1274年博多湾に攻込み、九州の御家人たちと激しい戦いを繰り広げました(文永の役)。
 幕府は、元の再度の来襲に備えて、九州各地の御家人らに命じて、1276年3月から約半年間で、
西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い約20㎞にわたる石築地(元寇防塁)を築かせ、その場所を警備させました。
1281年元は再び日本を攻めましたが、元寇防塁や武士の元船への攻撃に阻まれ、
博多の地には上陸出来ませんでした(弘安の役)。
 元寇防塁は1931(昭和6)年、国の史跡に指定され保存されています。とあります。
 


祠

西新元寇防塁に併設される元寇神社
元寇防塁が国の史跡に指定された昭和6年(1931)年建立されています。
御由緒等は不明です。おそらく戦死者の慰霊のために勧請されたものと思われますが・・・


西南学院大学

西新元寇防塁の東側に隣接する西南学院大学の第1号館
この1階に第1号館の新築にあたって検出された元寇防塁の遺構が移築展示されています。
この遺構は高さ2.4mの石塁の南側に約1mの間隔をおいて、高さ1.3mの土塁を配置していて石塁と土塁の二重構造になっていま
す。
 
 見学可能時間:月曜日~金曜日 午前9時~午後5時
ただし、夏季休暇中の公開は午前10時~午後5時 
(現在は同展示は工事中となっていて、ゴールデンウィーク明けまでは見学出来なくなっています。) 


史跡2

西新防塁から西に300m程行くと、民家を挟んで元寇防塁の碑と百道元寇防塁があります。 


看板

案内板によると、
「"元寇防塁"のことを古文書では"石築地"と記されていますが、大正2年、中山平次郎博士が"元寇防塁"と仮称し定着したものです。  
 石塁の高さは2.5m~3m、構造の工法は各地区によって異なりますが、
石材は近くの沿岸部の丘陵や能古島から運んだものと考えられます。
14世紀の半ば頃まで防塁の修理の記録がみられますが、以降、埋没し現在に至っています。」とあります





 ※「よかとこ情報探検隊」は、ボランティア隊員が地域の名所・旧跡やイベントなどの取材活動を行っています。