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初出:『市史だより Fukuoka』第11号(2010年9月1日発行)
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元(げん)の皇帝フビライはユーラシア大陸の大半を手中におさめ、文永11(1274)年には軍船900艘、3万の兵を、朝貢を拒否した日本の博多湾へと侵攻させました。元軍は百道浜(ももちはま)付近に上陸し、少弐景資(しょうにかげすけ)ら日本勢と激しい合戦を行い、夜になると船に引き上げました。ところが翌朝になると船影が消えていました。台風が吹いたという説もありますが、命拾いした鎌倉幕府は二度目の来週に備え、元軍を上陸させないように石築地(いしついじ)(防塁)を今津(いまづ)から香椎(かしい)までの約20キロメートルの博多湾岸に半年で築きあげました。弘安4(1281)年に再来襲した元軍4万の兵は石築地に阻まれ肥前鷹島(たかしま)まで退き、江南軍の軍船3500艘、10万の兵と合流して体勢を整え直しましたが、これまた大暴風により壊滅的被害をうけ目的を遂げることができませんでした。その後も鎌倉幕府は3回目の襲来に備え石築地の補修を続行しますが、この石築地は九州大学医学部教授で考古学者の中山平次郎(なかやまへいじろう)氏により「元寇防塁」と命名され、昭和6年に国の史跡に指定されました。しかしすでにその多くの石材が福岡城築城に利用されるなど、都市の発達とともに取り壊され、今では今津、生の松原(いきのまつばら)、西新(にしじん)など数カ所に残るのみになりました。
画像:史跡元寇防塁(西新・百道地区)
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かつて西新町(にしじんまち)には七つも映画館があった
初出:『市史だより Fukuoka』第12号(2010年12月31日発行)
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フランスで最初の映画(シネマトグラフ)が上映されて2年後の明治30(1897)年には早くも聖福寺(しょうふくじ)境内にあった教楽社(きょうらくしゃ)で福岡初の活動写真が上映され、大正2(1913)年には東中洲に最初の常設映画館の世界館が開館した。その後も開館が相次ぎ映画は市民の娯楽として大いに賑わった。しかし昭和20(1945)年の大空襲で都心の映画館は全滅。戦後の福岡の映画界は西新の聚楽座(しゅうらくざ)などわずかに生き残った周辺の映画館から再スタートした。昭和30年代の映画全盛期には映画館は市内に大小あわせて70数館あり、西新町には7館あった。
いまの新今川橋(しんいまがわばし)西側の英進館(えいしんかん)西新本館には東洋映劇(のち第二聚楽)、そこの西新一丁目交差点から南に入った聚楽通りのマンションのメゾン西新のところには通りの名にもなった聚楽座(のち西新東映、てあとる西新)、私のかすかな記憶では二階は畳敷きで、東映時代劇をよく見た。そのすぐ南の高田ビルに西新松竹(のち西新文化)、二番館の文化でプレスリーと加山雄三のシリーズはほとんど見た。それからオレンジ通りのてんぐ屋西新ビルは西新中央日活(のち西新アカデミー)、西新中央商店街のあっぱれ食堂前は新聚楽、脇山口(わきやまぐち)交差点のドン・キホーテの一角には第二東映(のち光映劇)、中西商店街のニシザワには西新東宝があった。昭和33年、全国の映画館入場者数が約11億2000万人という記録をつくった年に東京タワーが完成。テレビ時代を迎え映画館は次々に消え、西新アカデミーのポケモン上映を最後に平成11年9月15日に西新町の映画館の灯が消えた。(田鍋隆男)
画像:昭和50年代の西新商店街(提供:樋口喜朗氏)
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始まったころの号砲(ドン)は日の出と正午の2回だった
初出:『市史だより Fukuoka』第13号(2011年8月31日発行)
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明治19(1886)年7月にわが国の標準時が定められた。といっても人々に時間を守る習慣はなく、福岡区内には時間の標準を示すものもなかった。したがって人々の認識している時間はバラバラで事に臨んだ時にあちこちで不便が生じていた。そこで社会生活改良を提唱していた郷土史家の江藤正澄は、実業家の古賀男夫とともに標準時を報せる私立号砲会社を設立。大砲を大坂砲兵工廠(こうしょう)から購入し西公園の山上に設置し、砲手は黒田藩砲術家だった末永巴を雇い、21年7月22日より日の出と正午の2回発砲することにした。正午は福岡電信局が出すわが国の標準時を用いたが、日の出は季節によって変わるということで8月1日より払暁(ふつぎょう)の発砲は午前5時に決められた。しかし有志者の寄付金や区会の補助金による経営は心細く、8月以降は火薬代節約のため正午の1回のみとなり、23年1月14日にはついに運営に行き詰まりこの日かぎりで号砲は中止となった。
市民に「ドン」と呼ばれて親しまれた号砲も、なくなったための不便や音が聞こえない寂しさなどで号砲の再開を望む声があがり、江藤正澄は市会議長宛に建議書を提出。さらに2月1日に集会を開いて有志者の賛助を求めた。江藤は大きな爆発音による苦情に対処するためドンの砲口を海にむけるなど工夫して再開の準備を進めた。市会は市費補助を否決したが官吏や有志者の寄付もあって、24年6月20日からドンを再開。25年3月9日からは市役所の指導のもとで洲崎(すさき)(今の中央区須崎公園)の旧砲台にて発砲、さらに31年3月23日には福岡聯隊(れんたい)司令部建設のため西公園下の波奈(はな)旧砲台に移転することになった。博多の人には遠くて聞こえにくいとの声もあったが昭和6(1931)年3月31日まで、市庁舎の上に防空演習のサイレンが設置されるまでドンは鳴り響いた。(田鍋隆男)
画像:光雲(てるも)神社。号砲は本殿裏にある荒津山の山頂に設置されたという
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初出:『市史だより Fukuoka』第14号(2011年12月26日発行)
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南区桧原(ひばる)2丁目の五社(ごしゃ)神社の拝殿前にある石造狛犬(像高60センチメートル)は、福岡市内ではほとんど見かけない黒っぽい狛犬です。台座を見ますと、そこには昭和5(1930)年に浮羽(うきは)郡大石村(現在のうきは市浮羽町大石)の石工の石井佐平が造ったと刻まれています。大石村は『太宰管内志(だざいかんないし)』の筑後生葉(いくは)郡の項に、その名のとおり石の多いところと書いてあります。その石は黒い阿蘇溶結凝灰(ぎょうかい)岩で、他に同じ浮羽の山北(やまきた)あるいは八女(やめ)の長野が産地として知られています。大石村といえば、延宝(えんぽう)2(1674)年5人の庄屋が農民のために身代をなげうって筑後川に大石堰(せき)を築いて、灌漑(かんがい)農業に貢献したという五庄屋物語が有名です。また大石村の石工が造った古いものでは、宝暦(ほうれき)3(1753)年に秦宗助が造った久留米の櫛原(くしはら)八幡宮の手水盥(ちょうずだらい)があります。このように大石村の石材は筑後川の灌漑用材として、あるいは筑後地方の社寺の石造物に使われました。
これに対し筑前の狛犬や鳥居は白いのです。江戸時代なかばの『筑前国続風土記附録(ちくぜんのくにしょくふどきふろく)』に怡土(いと)郡、志摩(しま)郡、早良(さわら)郡では白い良質の石が採れ、それを加工する良い石工が福岡・博多のあちこちにいたと書かれています。したがって、福岡市内の社寺には白い花崗(かこう)岩で造られた鳥居や狛犬が多いのです。ところが大正時代の頃から大石村の石工に、久留米や田主丸(たぬしまる)の植木業者から庭を飾る石燈籠などの注文が増え、黒い凝灰岩の石造物が筑後以外にも広まったといわれています。五社神社の場合も奉納者が、庭木の剪定(せんてい)で来ていた植木屋の仲介で黒い狛犬を奉納したのではないかと想像されます。福岡県の北と南、筑前と筑後では石材の違いで石造物の色が違うということにお気づきでしたか?(田鍋隆男)
画像左:五社神社(南区桧原)の狛犬
浮羽産の黒い凝灰岩で造られている
画像右:平尾天満宮(福岡市中央区)の狛犬
白い花崗岩で造られている
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初出:『市史だより Fukuoka』第15号(2012年8月20日発行)
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明治4(1871)年の一番山笠(中魚町(なかうおのまち))の高さは、50尺(約15メートル)あり、ほかの流れも同様に飾りが華やかで大規模で、破産者が出るほど多額の費用を要した。そこで県は5年に山笠などの作り物を伴う祭祀を禁止したところ、それを待っていたかのように、6年に大名町(だいみょうまち)に開局した福岡電信分局が市内に電信線を架した。16年の山笠再開後は費用節約のためにも、電信線の下を舁(か)くためにも、高さを半分近くの28尺(約8.4メートル)にした。それでも通過の際は電信世話人が、山笠上部を両方に開くようにしていた。25年に電信線が高架になると高さは31.5尺(約9.5メートル)になるが、30年に東中洲(ひがしなかす)にできた博多電燈会社が電燈線を架設すると、いよいよ山笠は舁きにくくなり、当番町(とうばんちょう)会議は紛糾して、この年は舁き山はつくらなかった。翌31年には電話線が架設され、翌年に同じ東中洲に福岡電話局が開局し、博多の空は電信線、電燈線、電話線が蜘蛛(くも)の巣の如く張り巡らされた。山笠廃止論をおさえるためにも、博多の伝統継承のため、街の活性化のため、そして警察署の許可を得るためにも山笠は低くならざるをえず、31年の高さは台ともにわずか9尺(約2.7メートル)になった。なかには低い山笠に反発して高く飾りつけ、舁くときに上部を小屋に残していく方式にした町もあったが、38年には11尺(約3.3メートル)に統一された。43年に福博電気軌道の電車の架線がひかれたときは、ほとんど台のみの状態だった。このように山笠は経費および文明の利器という障害物を、高さを変えてのりこえてきた。なお市内電車が全廃されたのは昭和54(1979)年、電線の地中化工事がはじまったのは61年のことである。ちなみに現在の舁き山の高さは約4.5メートル、飾り山は約10メートルである。(田鍋隆男)
画像:石堂流(いしどうながれ/現・恵比須流) 明治25年はこんな高い山笠を舁いていた(福岡市博物館蔵)
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初出:『市史だより Fukuoka』第16号(2013年1月20日発行)
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平成24年は文豪森鴎外(1862~1922)が誕生して150周年になる。石見(いわみ)国津和野(つわの)藩(現・島根県津和野町)御典医(ごてんい)の家に生まれた鴎外(本名・林太郎)は、19歳で東京帝国大学医学部を卒業して軍医となり、明治32年2月には軍医監(ぐんいかん)(少将相当)に昇任、そして6月19日に第十二師団軍医部長として小倉(こくら)に赴任して来た。着任早々、福岡・佐賀等の管下聯隊(れんたい)の衛生状態や兵士の健康状態などの巡視を行い、7月6日には第二十四聯隊福岡衛戌(えいじゅ)病院を訪れている。そこで『福岡日日新聞』の記者の質問に対し、近頃は文学とは疎遠になっているが、九州は史蹟が多いところなので、勉強して文学の材料を見つけることを楽しみにしていると答えている。鴎外は軍医として軍事糧餉(りょうしょう)(軍隊の食糧)に大きな関心を持ち、執筆はもちろん、翌年の9月20日に福岡の社交団体である博渉会(はくしょうかい)が主催した福岡市内での公開演説会でも、軍事糧餉について語っている。34年5月17日に徴兵検査視察で来福、さらに9月19日の聯隊検閲の際は、再び博渉会の主催で東公園の一方亭において講演を行っている。また、鴎外は『福岡日日新聞』に寄稿しており、珍しいものでは35年元旦の、黄檗宗(おうばくしゅう)の高僧であり小倉福聚寺(ふくじゅじ)の即非(そくひ)(1616~71)に関する年譜がある。鴎外は同寺の僧侶と親交があり、また幼少の時に藩校養老館(ようろうかん)で学んだ漢学の素養もあって「即非年譜」が執筆されたと思われる。ところがこの年3月に東京の第一師団軍医部長への異動が発令され、福岡第二十四聯隊長も出席しての小倉偕行社(かいこうしゃ)での送別会ののち、3月26日に鴎外夫妻は小倉を離れた。なお、鴎外と親交があった後任の武谷水城(たけやみずき)(1852~1939、御笠(みかさ)郡出身)もまた、筑紫史談会を主宰するなど、鴎外同様に歴史や文化財に造詣が深い軍医部長であった。(田鍋隆男)
画像:福岡衛戌病院があった福岡城本丸跡
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初出:『市史だより Fukuoka』第17号(2013年8月30日発行)
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江戸時代後半、博多聖福寺(しょうふくじ)に、機知に富んだ禅的戯画を描くことで知られた僧、仙厓(せんがい)(1750~1837)がいた。ある日、来博中の七代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)(1791~1859)が、天下の名僧に会いたいといって、人を介して申し込んできた。そこでちょっとだけという約束で、翌日團十郎は同寺の虚白院に出掛けたが、長時間次の間に待たされ、いっこうに仙厓は現れる気配がない。膝もくずさずがまんして待機していると、突然、襖が開き、「あっ」と眼目大きく開いて見上げる團十郎に、仙厓は立ったまま「何という大きな目ん玉だい」といって、さっさと戻って行った。そのとき團十郎は一言、「これで江戸への見上げができた」と喜んだという。後年、團十郎の家に「お江戸では市川二かは知らねども ぴんとはねたる海老の目ん玉」と書かれた仙厓の掛け軸があったとも。
「江戸の見上げ(土産)」という洒落(しゃれ)が入ったこの話は、真偽のほどはわからない「仙厓ばなし」のひとつである。江戸の人気役者七代目市川團十郎が九州に来たのは天保(てんぽう)5(1834)年のこと。ただし2年前に長男が八代目團十郎を襲名しているので、このとき44歳の七代目は市川海老蔵(いちかわえびぞう)と改名していた。天保5年といえば、4月に福岡藩が中島浜新地(現 博多区中洲中島町)に芝居小屋や茶屋など繁華街を建設し、藩直営で芝居や角力(すもう)の興行を行い、藩の財政再建を画(はか)った年であった。7月には市川海老蔵(七代目市川團十郎)が、翌6年春には市川團十郎一座が来演し、大入りの歌舞伎興行は今の中洲繁栄のもとを築いたといわれる。
昭和48(1973)年には、中島公園に團十郎の博多来演140周年を記念して、十代目市川海老蔵(十二代目市川團十郎)が碑銘を揮毫(きごう)した「七代目市川團十郎博多来演之碑」が建てられた。
画像:七代目市川團十郎博多来演之碑(博多区中洲中島町)
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東公園パノラマ館ジオラマ館と画家 矢田一嘯(やだいっしょう)
初出:『市史だより Fukuoka』第18号(2014年1月30日発行)
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明治43(1910)年の春、東公園の日蓮上人銅像の約100メートル北東側に、銅像建設に尽力した佐野前励(さのぜんれい)師の唱道によって、パノラマ館とジオラマ館ができた。正面入口から入って暗い通路を抜けると、そこは幅約9メートル、奥行き約18メートルの長方形をしたジオラマ館。その側壁三面には、幅約2.7メートル、横約3.6メートルの、日本武将と元(げん)軍との熾烈(しれつ)な戦闘場面が迫力いっぱいに描かれた「元寇大油絵」10面が展示された。続いて隣接する東西約25メートル、南北約22メートルの楕円筒形をしたパノラマ館の中央階段を上がると、そこは旗艦三笠(みかさ)の甲板上にいるような錯覚に陥る。目の前には縦約9メートル、横約75メートルの「日本海海戦の図」の大画面がぐるりと広がり、東側には波濤(はとう)踊らす日本艦隊、そして西側には黒煙漲(みなぎ)るバルチック艦隊とが海戦を繰り広げている。なお、パノラマ館は翌年10月からは蒙古(もうこ)襲来の図へと改作され、元寇(げんこう)パノラマ館とよばれた。
この二つの大画面を描いたのが矢田一嘯(1859~1913)。一嘯は横浜に生まれ、15歳で日本画を学び、25歳でサンフランシスコに渡って、かつて日本の工部美術学校の教師をしていたカッペレッティに洋画を学んだという。帰国して明治23年に開館した東京・上野パノラマ館の「奥州白川大戦争図」を描いて評判を得、ついで熊本の九州パノラマ館で「西南戦争」を描いたとき、元福岡警察署長の湯地丈雄(ゆちたけお)の元寇紀念(ママ)碑(亀山上皇銅像)建設運動に賛同し、募金講演会のために元寇の大油絵を制作した。27年頃には福岡に移住し、湯地に協力する傍ら、博多人形師に着色技術や近代的表現技法等を指導、若い画家に洋画を教え、博多の実業家たちには英語を教示、さらに43年には市内の画家水上泰生(みずかみたいせい)や福岡医科大学(現 九州大学医学部)の中山森彦教授らと「五月会(ごがつかい)」を結成。新古書画や古器物等を品評するなどのサロン的活動を行うなど、明治後半期の博多の文化形成に大きく貢献した。
画像:絵葉書「東公園元寇記念パノラマ館(福岡百景)」
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