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初出:『市史だより Fukuoka』第3号(2006年6月30日発行)
2020年9月11日 一部改訂
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福岡市域の歴史の豊かさ、多様さは、あたかも万華鏡といっても過言ではありませんが、とりあえずその大きな流れを知るためには「博多」と「福岡」、この二つの地名がキーワードです。
博多は古代からある地名で8世紀には記録に出てきます。もともとは湾内沿岸一帯と、そそぎ込む川の流域も一部含むような広い地域を指したそうです。たぶん、外海からくる船の停泊地は何か所もあったのでしょう。そもそもの「ハカタ」の語源は、そのような地形にあるといわれます。その後、中世に国際的な貿易の中心として都市部分が発達すると、特にそこを指す地名になってきました。
一方の福岡は、ずっと下って近世のはじめ、初代福岡藩主黒田長政(くろだ ながまさ)が博多の西隣に新しく城郭と城下町を作る際に、黒田氏の先祖ゆかりの地である備前福岡(びぜんふくおか)(現岡山県瀬戸内市長船(おさふね)町)にちなんで付けた名前です。その結果、藩政の中心である福岡、商業・流通面で全国的に名の通った博多がそれぞれ那珂川を挟んで存在し、全体で黒田氏の城下となっていました。
明治4(1871)年になって、藩から県にかわり福岡県が生まれましたが、福岡の町自体は少し寂れました。しかし同22年に市制が施行され、市名が決まった後も、市名の変更をめぐって市会で福岡派と博多派が争い、一票差で福岡に決まった話は有名です。もちろん博多は福岡市内の地名のほか、市の中心駅の名前として残り、また現在も全国に知られています。
福岡市はその後現在まで周辺市町村を合併して、昭和47(1972)年には政令指定都市になり、博多は区となりました。このように二つの地名とその中味の変遷は、実は現在の福岡市域の歴史を象徴していると言えるのではないでしょうか。
画像:那珂川にかかる福博であい橋
(旧福岡県公会堂貴賓館側から中洲をのぞむ/提供:福岡市広報課)
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初出:『市史だより Fukuoka』第4号(2006年12月20日発行)
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福岡城は初代福岡藩主黒田長政(くろだ ながまさ)が慶長(けいちょう)6(1601)年から築城し、江戸時代264年の間、黒田氏の居城として偉容を誇りました。しかし、近代に入ってからは、激動の歴史の舞台となっています。
明治4(1871)年の廃藩置県で城内に福岡県庁が置かれましたが、明治6年の筑前竹槍一揆(ちくぜんたけやりいっき)では、この県庁が焼き打ちされる事件もおこりました。
明治9年には県庁が東中洲に移転し、福岡城には軍隊が置かれています。さらに明治10年、鹿児島の西郷隆盛(さいごう たかもり)に旧福岡藩士族が呼応した福岡の乱では、襲撃目標とされ、城外の山中では激しい戦闘となりました。明治19年には歩兵第二四連隊兵営が置かれるに至ります。その間、城内に残った空き地や堀などが授産事業に利用され、維持管理の難しい櫓(やぐら)等は市内各所のお寺などに売り払われるなど、かなりの変容がありました。そして昭和20(1945)年6月19日には米軍の空襲を受け、大半は破壊され、9月の米軍進駐で廃城となったのです。
平和台として甦ったのは昭和23年の第3回国体の時です。翌年には球場開きのプロ野球が始まり、昭和32年に国指定史跡となるなど、スポーツ・文化の中心地となりました。
昭和62年、球場外野スタンド下から古代史を塗り替える鴻臚館跡が発見され、現在は球場の移転など公園整備が進められています。
画像:福岡城・多聞櫓(重要文化財)
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初出:『市史だより Fukuoka』第5号(2007年6月30日発行)
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近世・江戸時代の博多祇園山笠(やまかさ)は、戦国時代の戦火から、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の町割によって復興した博多に住む、商人や職人の繁栄と自治を象徴する祭礼となりました。
祭礼では、博多の町々の行政と自治の組織である流(ながれ)が単位とされ、太閤町割(たいこうまちわり)以来の七流れが、順番で山笠を担当して6本の山を造り、残る1流は櫛田(くしだ)神社へ奉納する能の当番に廻りました。近世中頃には都市の発展によって流が10にも増えますが、新しい流はもともとある7流の加勢に廻りました。
流の中でも当番の町が山造りを担当し、ほかは山舁(やまかき)に廻ります。また、小さな町や新しい町は、流の中での歴史や実績を積まないと、単独で山笠を造る事が許されない場合もありました。
当時の山は高さ15メートル、当番町は財力をかけ、山造りの職人や大工、人形師の協力で造られました。旧暦6月15日、追山(おいやま)には一番山から街路を練り歩きましたが、なんといっても山を舁(か)くのは若者たちで、前を行く山を抜いたの何のと、大喧嘩になることがありました。山笠は、博多の町々の自治の歴史とエネルギーに、強く関わっていたのです。
画像:博多祇園山笠巡行図屏風(福岡市博物館蔵)より
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初出:『市史だより Fukuoka』第6号(2007年12月15日発行)
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博多松囃子(まつばやし)の起源は古いとも言われますが、現在伝わっているものは、近世初め頃(小早川時代)に一時中断したあと、江戸時代前期に再興されたものです。
祭は毎年正月15日に行われ、博多から、仮面をかぶり馬に乗った福神、恵比須、大黒の三福神と、台車に乗った稚児(ちご)(児)の行列などが、福岡城三の丸の館に出向き、藩主や一族、重臣などに年始の挨拶をし、稚児の奉納舞などが行われ、その後博多の町々を廻(まわ)ってお寺や家々を祝いました。
運営は、博多の行政と自治の組織である流(ながれ)(町組)のうち、太閤町割以来の7流が中心となり、3流(魚町(うおのまち)、石堂(いしどう)、洲崎(すさき))は三福神を仕立て、4流(東町(ひがしまち)、呉服町(ごふくまち)、西町(にしまち)、土居(どい))は稚児を仕立てて祭を盛り上げました。松囃子の当番となった流では、正月5日から太鼓などの練習が始まります。衣装その他の準備を整え、当番町の中をめぐるなどの予行演習をおこなったと言われています。
このほか、「とおりもん」と呼ばれる作り物の山車も仕立てられ、踊りや仮装行列などが盛大に続いて、新春のにぎわいに華を添えました。
なお現在、三福神の行列は「博多どんたく港まつり(5月3・4日)」の朝に、「とおりもん」などの行列は、昼間の市民大パレードとして見ることができます。
画像上:松囃子 『追懐松山遺事』(福岡市博物館蔵)より
左から、傘鉾・大黒・恵比須・福神
画像下:通物の図 『筑前名所図会』(福岡市博物館蔵)より
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初出:『市史だより Fukuoka』第7号(2008年6月30日発行)
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西公園は、現在の中央区、小高い荒津山を中心とし、眼下の博多湾や、玄界灘を遠くに望む風光明媚(めいび)な場所で、対外交流で栄えた福岡市域の歴史を見守った舞台でもあります。
ここは太古には陸続きの離れ島であったといわれ、古代には鴻臚館に滞在する国内外の使節が行き来した港があったとして、万葉集にも詠まれています。中世は荒津庄といわれる荘園の一部だったと言われますが、江戸時代に城下町福岡に取り込まれ、麓(ふもと)に徳川家康をまつる東照宮が建てられたほか、整備された港からは、筑前の産物を積んだ多くの商船や、長崎に警備に出かける福岡藩の軍船が出航して行きました。
近代になり、明治14(1881)年、地元の人々によって公園化が願い出られ、同21年に県の公園として発足し、その後、黒田如水(じょすい)、長政をまつる光雲(てるも)神社も建てられ、万葉の歌碑、維新関係人物の銅像もおかれるなど、大濠とつながって福岡の歴史観光の名所の一つとなりました。昭和20(1945)年6月19日の空襲では一部が消失しましたが、戦後は2500本の桜、1700本の躑躅(つつじ)、紅葉(もみじ)を有する、遊歩道付自然公園として、四季おりおりの行楽地に生まれ変わりました。
画像:昭和初期頃の西公園から望む博多湾(福岡市博物館所蔵絵葉書より)
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初出:『市史だより Fukuoka』第8号(2008年12月15日発行)
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福岡市域を一望できる場所の一つに、福岡市中央区の、標高60メートルの展望台を持つ大休山一帯に作られた南公園があります。
大休山は、福岡城のある赤坂山の丘陵から南に続く丘陵で、名前の由来は、江戸時代の『筑前名所図会』によると、古くは福岡から南へ抜けるための峠道で、途中で人々が一休みする場所だったことによるといわれ、頂上付近は城下の一望できる絶景の場所とされました。
またこの地は、享保17(1732)年の大飢饉の時に、南部の村々から、福岡城下での救いを求めて行く途中で餓死した人々のための、供養墓や地蔵などがあり、明治10(1877)年の福岡の変では、福岡城攻撃をあきらめ、追撃する政府軍をのがれて南部へ移動する士族反乱軍の集結地になりました。現在の南公園一帯は、平尾浄水場跡地も合わせて昭和55(1980)年に開園した福岡市動植物園と、その北の静かな森林散策コースからなります。
画像左:南公園展望台より
博多湾をのぞむ
画像右:南公園内の飢人供養墓
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初出:『市史だより Fukuoka』第9号(2009年7月15日発行)
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友泉亭(ゆうせんてい)公園(福岡市城南区、福岡市指定文化財)は、六代福岡藩主黒田継高(つぐたか)が宝暦(ほうれき)4(1747)年に完成させた別邸「友泉亭」にちなんだ公園です。中央区と南区を分ける鴻巣(こうのす)山(標高約100m)から続く丘陵が、ほぼ西に延びきって城南区の樋井(ひい)川と出会う場所に位置し、造営当時は丘と林に囲まれた館に清らかな泉と川の水を利用した池を持つ庭園が設けられ、その名も「世の中の暑さも知らないでわき出る泉を友として、庵をむすぼう」という意味の和歌から取られました。継高以降の歴代藩主は、娯楽のため家族と滞在したり、秋月藩主など大切な客を接待しました。また福岡城の火事の時は、藩主一族の避難場所にもなりました。
明治になると、この地は近隣の村々の小学校、さらに樋井川村役場として利用された後、昭和となって民間に手放され、一時荒廃もしましたが、買い戻した福岡市が昭和56(1981)年に公園として復元整備しました。規模も江戸時代に比べて縮小し、池の水源、茶室等の建物はさすがに当時と異なりますが、今も静かな木々の中の泉池を巡ることができる庭園は、暑い夏を迎える福岡のオアシスといえます。
画像左:現在の友泉亭公園
画像右:黒田継高像(福岡市博物館所蔵)
- 東公園の今昔 ―松林と歴史の名所から、緑の憩いの場へ―
初出:『市史だより Fukuoka』第10号(2009年12月15日発行)
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福岡市博多区の東公園は、古くはその一帯が箱崎松原、千代松原と呼ばれた博多湾の広大な松原の地です。古くから筥崎宮の神木の松の林として大切にされ、室町時代の連歌師宗祇(そうぎ)も旅行記でその美しさを称えた名所でした。天正15(1587)年の豊臣秀吉の九州出兵では博多商人も招かれた千利休(せんのりきゅう)の茶会が催されており、江戸時代には福岡藩に保護されています。
明治9(1876)年になり、松原の一部の約20ヘクタールの土地が公園地に指定されて、同12年に東松原公園と称された後、同33年に県営東公園となり、同37年には今も公園のシンボルとなっている元寇ゆかりの亀山(かめやま)上皇と日蓮の巨大銅像が建立されました。その後、大正中期に松原が害虫の大被害を受けたため整備が始まり、昭和8(1933)年には動物園も開園(戦争のため同19年閉園)、戦後は昭和31年に各種競技場設備の揃った面積2倍の運動公園に発展しました。現在は昭和56年に県庁が移って来たことで再整備され、季節の花や緑の多い憩いの場に変わっています。
画像左:亀山上皇像(絵葉書「福博名勝」:福岡市博物館蔵)
画像右:東公園入口の風景(絵葉書「福博名勝」:福岡市博物館蔵)
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