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江戸時代、福岡城の西側は、黒門によって城下とその西側の町に分かれていました。西側の町は現在の唐人町に当たり、小倉と唐津を結ぶ唐津街道沿いに町屋が建ち並び、行き交う人たちでにぎわいました。
慶長12(1607)年、福岡藩は現在の唐人町北公園(唐人町二丁目)付近に、穀物を量る桝の製造や計量検査を行う「桝木屋(ますごや)」を設置しました。検査に合格した桝には焼印が押され、藩が定めた桝として使用されました。
年貢米の上納に「納め桝」を、家臣の俸禄米の支給には「御国町桝」が使われますが、納め桝の一升は御国町桝の一升八勺(しゃく)に相当し、2種類の異なる容量の桝を状況に応じて巧妙に使い分けていました。
寛文9(1669)年、幕府は各藩で用いる桝を統一するため、納め桝より小さい「京桝」を公式な桝として定めました。
現在の唐人町北公園周辺地図
市政だより中央区版 令和7(2025)年8月15日号に掲載されました。