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福岡市史への歩み 【17】
初出:『市史だより Fukuoka』第18号(2014年1月30日発行)
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昭和40年代後半になると、行政のなかにも歴史資料の重要性について幅広く考え、市民へのアピールを志向するような動きがみえてきました。それは、元寇防塁(げんこうぼうるい)跡の発掘調査にともない、文献史学的な考察も並行して進め、きちんとした「史料集」を福岡市教育委員会が出版したことからみて取れると先回報告しました。
その後、昭和47(1972)年に福岡市が政令指定都市へ昇格したことにともなって、翌年には福岡市文化財保護条例が制定され、文化財保護行政を福岡市独自で推進する体制が作られると、さっそく福岡市内の「文化財資料調査」が始まりました。急激な都市開発にともなって埋蔵文化財調査の件数はうなぎ上りに増加し、それに対応するため調査人員の増加も含め、調査体制が整備されていきました。なかでも特筆すべきは、発掘調査と並行して調査地域の文献史料収集も行われるようになったことです。埋蔵文化財もたんに考古学的調査だけでなく、より総合的な歴史的位置づけを志向するようになり、市域に関する古文書・古記録の収集整理の必要性が日増しに高まっていたのです。しかしながら、当時はまだ、昭和31年に始まった明治時代以降の福岡市の歩みを対象とした福岡市史編さん事業が継続中ということもあり、原始から近現代までを網羅した本格的な市史編さんのきっかけはつかめませんでした。
だからといって、文化財関係者が手をこまぬいていたわけではありません。現場から福岡市域に関する古文書・古記録類の調査研究の必要性を訴えるとともに、行政の上層部にそれを理解してもらうため、権威のある複数の歴史研究者に発言してもらうという手段を講じました。機会をとらえ、直接対話してもらうというゲリラ戦法ともいうべきもので、筆者も実際にこうした「戦法」を何度も目撃しました。
そうした一連の働きかけのなかで、行政の上層部は「地域の歴史」を誰にでも、よりわかりやすく、平易に理解できるスタイルにすることが望ましいと考えていることがわかってきました。具体的には、大手出版社がさまざまなシリーズを出していた学習漫画にならって「まんが 福岡市の歴史」のようなものを出版するという案でした。
自治体史を「漫画」でという着想は筆者には思いもよらぬことでしたが、平易な自治体史をといわれてみると一考しないわけにはいきません。福岡市のように重層的な歴史がある都市の歴史を、漫画化することの無謀さを説いて、ひとまずこの考え方は納めてもらいましたが、こののち漫画化という発想は筆者が思っていたよりずっと根強かったことに気づかされました。その件は次回で述べます。
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福岡市史への歩み 【18】
初出:『市史だより Fukuoka』第19号(2014年8月30日発行)
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前回に引き続き「まんが 福岡市の歴史」の続編です。この「まんが」版という発案の契機になったものは何かと考えてみますと、思い当たったのは海外の事例でした。
昭和50年代、福岡市とフランスのボルドー市は、姉妹都市締結を目指した交流を開始しました。この取り組みが打ち上げ花火にならないよう、息長く市民の目に触れるような交流をということで、民間も含めたさまざまな交流が積み重ねられました。通常都市間の交流というと経済的交流を思い浮かべがちですが、このボルドー市との交流事業は、特に文化交流に力点を置いた取り組みがなされました。その目玉が、両市美術館同士の交流展の開催です。調印式にあわせて福岡市美術館の所蔵品を中心とした美術品をボルドー美術館にて出張展示し、翌年にはボルドー美術館の名品の数々を紹介する展覧会が、福岡市美術館で開催されることが決まりました。そして昭和57(1982)年11月8日、姉妹都市締結の調印式がボルドー市庁舎で行われ、福岡市から姉妹都市調印福岡市代表団団長であった当時の進藤一馬(しんとうかずま)市長をはじめ、市役所や民間の関係者が多数渡仏し、ボルドー市の文化と風土に浸ったことでした。
その後、ボルドー市から贈られた印刷物のなかに、翻訳すると「ボルドーの歴史」という1冊がありました。ハードカバーで42頁の大型本です。これがなんと絵本仕立てになっており、いわば「まんが」本とも思えるものでした。
中身は、ボルドーの2000年に及ぶ歴史事象を1コマずつの絵にして解説を加えたもので、原文はフランス語ですが、絵をメーンにしたことで、直接文字を読まずとも大まかな意味を汲み取ることができます。また、贈られたこの本には、解説文の日本語訳を印刷した紙が各頁に1枚ずつ挟んでありました。翻訳の精度なども含め、これが完璧な方法とはいきませんが、絵解きという手法で文章を最小限にしたことは、他言語版の本を作成する際の課題解消の一方策であることに気付かされます。日常的に多言語のなかで活動する欧州社会の成熟度に脱帽したことでした。
この「ボルドーの歴史」は、福岡市から調印式に参列した関係者の、ほぼ全員に配られました。つまり福岡市の幹部の多くがこの本に触れ、その有効性に気付き、アジアに向けて開かれた福岡市を考えた時、このような出版物を話題にしたかもしれないのです。「まんが 福岡市の歴史」という発想の背景には、このようなエピソードもありました。
画像:寄贈された「ボルドーの歴史」(縦32.3cm×横30.8cm)
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福岡市史への歩み 【19】
初出:『市史だより Fukuoka』第20号(2015年1月31日発行)
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前回は「まんが 福岡市の歴史」制作企画案が市役所内部で浮上した契機の一つとして、「ボルドーの歴史」という本についてお話ししました。もちろん前回のことだけが「まんが化」という発想の契機とは思ってはいません。ちょうど、大手出版社がさまざまな学習まんがシリーズを出し、歴史を題材としたまんがシリーズなどが評判になっていた頃です。ずいぶんと幅広く「まんが化」への思いがあったことは確かでした。
「まんが化」の次に出てきたのは、「ビジュアル化」というキーワードでした。筆者は「まんが化」を実現するためには、史実の検証はもちろんのこと、その他にも衣食住にわたる時代考証、あるいは使用言語は標準語か博多弁か、はたまた福岡弁かという、実は大変厄介な問題があるということを説明し、「まんが化」を発想した人々にもしっかりと理解してもらいました。
ところが、それではとばかりに出てきたのが、あまたの分野の歴史的資料を写真に撮って、現代語でコメントをつけ、物語を構成するという、写真週刊誌ばりのスタイルを持ったものはできないか、という案でした。筆者をはじめ、さまざまな人が各々の立場でこれに対応したのはもちろんのことでした。
両案とも根幹には、一般の市民が予備知識なしに楽しく福岡市の歴史が概観できる本は作れないか、という考えがあることにほかなりません。しかし、そのための基本となる福岡市の歴史的歩みについては、既存の歴史書やこれまでの周年記念刊行物を参照するにとどめるというのです。つまり、より精細な史実を検証することや、そのようにして判明した史実をダイナミックに構成することなどに時間や予算や人を投入することはせずに、より簡単に素早くできない かという安易な発想にほかならないのです。
行政マンとしては、事業を実施するにあたり、効率よく、短期間、低コストで完成させることを考える必要はありましょうが、日本のなかでも特異な歴史を歩んだとされる福岡市の歴史を、そのような方法で編さんすることができると本気で考えているのかと、心の底から残念に思う以外にありませんでした。
このような動きの根底には、昭和34(1959)年から刊行している「福岡市史」を今後どうするのか、その 将来方針が定められていなかったことが考えられます。この時点の「福岡市史」は、総務局統計課(当時)で編さん作業が行われていたのですが、この「福岡市史」は行政内部の資料を中心に「市政の歩み」を追っているため、編さん事業の節目が設定しにくいという事情がありました。そんななか、「昭和」から「平成」へ移った頃から急に、無原則でこのような新しい形の「福岡市史」を作るという話が持ち上がったのです。新しく事業が立ち上がる際には、一時的な混乱はあって当然かとも思えますが、ポスト「福岡市史」への思考はしばらく協議の時間が必要だったのです。
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福岡市史への歩み 【20】
初出:『市史だより Fukuoka』第21号(2015年8月31日発行)
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これまで各自治体により、さまざまな形で自治体史の編さんが行われてきました。地道な作業ではありますが、これらが、日本史研究の進展に大きく寄与してきたことも確かです。
福岡市の場合、市史編さんは大正年間からその芽が出ていたものの、なかなか本格的な編さん事業を開始できずにいました。早い段階で市役所内外からのアプローチはあったようですが、どれもなかなか実を結ばなかったのです。結果的に、現在編さんしている『新修福岡市史』は、国内主要都市の中では、最後尾のスタートとなりました。
時代が「昭和」から「平成」へと移り、昭和34(1959)年から刊行が始まった、市制施行(明治22〈1889〉年)以降を対象とする行政資料中心の『福岡市史』の編集作業が、平成9(1997)年度をもって終了することになりました。しかしその時点では、その後の市史編さん事業をどうするかという方針は、まだ決まっていませんでした。そこで、以降の編さん事業についての協議が、市役所内部で始まりました。また仄聞(そくぶん)するところでは、同じ頃、大学関係者や研究者が、本格的な自治体史の必要性について、各所で発言していたそうです。ただ、市史編さんに関する協議や発言が活発になってきたものの、市役所トップが新たに本格的な市史編さん事業の開始を決断するには、今ひとつといった状況だったようです。もうひと押し、何かが必要だったのです。筆者が体験したその「ひと押し」をお話ししましょう。
平成10年11月6日に開催された「福岡市文化賞」の表彰式と、それに続く祝宴でのことです。福岡市は、市民文化醸成を目的として「福岡市文化賞」を設け、昭和51年度から文学・芸術・美術・音楽など、創造性に富む市民を毎年顕彰しています。筆者も、博物館関係の市民活動について状況を聴取されるようになっていましたので、これ幸いと声を大にして市民の文化活動を報告していました。表彰式にも駆けつけ、祝言を述べ、喜びを一にしていたのです。この席上、武野要子教育委員(当時)が、筆者を桑原敬一市長(当時)の側に呼び寄せ、研究者も応援するから本格的な自治体史の編さんを始めるようにとの趣旨で、市長に懇請されました。郷土史家の受賞者もいたため、彼らも加わって市長陳情のごとき様相を呈しましたが、文化事業の場ということもあってか、市長は『福岡市史』の区切りがついたら、本格的な市史編さんを始めようと約束され、二重の喜びに沸いた一コマでした。居合わせた筆者は、事のなりゆきをただ感激して見ていたことを思い出します。『福岡市史』の編集作業終了後、市史編さんの予算は大幅に減額されていましたが、本格的な市史編さんに向け、事業は継続していくこととなりました。
個性ある自治体であろうとするならば、将来への展望を考えるうえで、過去を振り返る必要があるでしょう。そのとき、自治体史の存在は、大きな助けとなるはずです。
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福岡市史への歩み 【21】
初出:『市史だより Fukuoka』第22号(2016年3月31日発行)
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前回は、現在編さんしている『新修 福岡市史』の出発点の一つとして、平成10(1998)年11月6日に開かれた「福岡市文化賞」の表彰式があったというエピソードをお話ししました。新しい「福岡市史」について、庁内での検討はそれなりに進んではいましたし、論議もあったのですが(このことについては、田鍋隆男「『新修 福岡市史』が刊行されるまで」『市史研究ふくおか』第6号、2011年、38ページに詳しい)、これまで何度かお話ししてきたように、昭和34(1959)年から刊行が始まった『福岡市史』の編さんがいつ終わるのか、はっきりしていなかったために、五里霧中というか、右顧左眄というか、明確な展望に欠けていたことは確かだったようです。そういう時に庁内の論議だけではなく、庁外および民間の研究者からの直接の一押しは、まことに時宜を得たものとなったように思えました。ただその頃、市史編さん室は市役所の総務局統計課に所属していましたので、教育委員会にいた筆者には、市長の具体的な指示内容についても、予算要求書の内容についても分かりようはなく、市長自らが必要性を確認し、具体的に指示しようといった、その言葉を信じるだけでした。信じるに足る理由はあったのです。それは次のような当時の状況を、筆者自身がよしとしていたからにほかなりません。
まず文化面では、市制100周年記念の「アジア太平洋博覧会(よかトピア)」が成功裏に終わり、福岡市の知名度は海外にも広まりました。この延長として、福岡アジア文化賞の創設、アジア太平洋センターの設置についで、福岡アジア美術館を開館するなど、アジアの一員として、アジア文化の顕彰が進められていきました。一方、スポーツ面では、ユニバーシアード福岡大会をはじめとした大会を開催し、次代を担う世界の若人に福岡をアピールするとともに、福岡ダイエーホークスを誘致して、プロ野球への楽しみを再開させてもいました。さらには、アジア開発銀行福岡総会という金融関係の国際会議や、九州・沖縄サミット福岡蔵相会合を誘致するなど、多方面にわたって、福岡市の地盤の底上げがなされていました。この勢いで、地元福岡市の歴史・文化を集大成してくれる(この場合は「福岡市史」の編さんということですが)ものと期待していたわけです。
しかしながら、何事も思うようには進まないものです。「福岡市文化賞」の表彰式から9日後には、4年ごとの福岡市長選挙が行われることになっていました。選挙に関しては、たいした争点もないように思われましたし、筆者としてはただ、市史が一歩前進するという事ばかりが頭にあって、市政に変更はないとの期待感がありました。ところが結果は、案に相違して市長の交代ということになったのです。正直な印象をいわせてもらえれば、この事態は市史編さん事業にとっては、とんでもない逆風になったと感じたものでした。
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福岡市史への歩み 【22】
初出:『市史だより Fukuoka』第23号(2017年4月30日発行)
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平成10(1998)年11月6日の「福岡市文化賞」表彰式後の立食交流会の席上で、桑原敬一市長(当時)が、受賞者をはじめ幅広い文化関係者に、本格的な市史の編さんを約束し、出席者一同大変喜んだことは、これまでお話しした通りです。しかし、筆者は手放しでは喜べませんでした。前回お話ししたように、市役所内で議論されていたにも関わらず、その後の方向性がなかなか見通せなかったからです。
一般的に、同様の事業が続けて採択されるのは考えがたいことですし、市役所では多くの重要事業が順番を待っています。11月といえば、次年度の予算編成の骨格がもうできているはずです。市史編さん事業は単年度経費でみれば、高額ではないかもしれませんが、3年や5年で行う規模の事業ではありません。とりわけ、福岡市は歴史事象に事欠かないことが知られているだけに、長期に及ぶのは明らかです。市長の心配もそこにあったのかもしれません。 しかし市長たる者が、民間人の前で一時の口をすべらせたとも思えません。文化関係者は小躍りせんばかりだったのですから、市長が事務当局をうまく説得してくれて、少額でも良いから、足がかりになるだけの予算が付けば、彼らも真実喜んでくれるだろうと思っていました。そしてそうなれば、市長の思い入れがどの程度のものなのかを知りうる好材料になるとさえ、密かに思っていたのです。そんなことでしたから、表彰式から9日後の11月15日に市長選挙が行われることなどは、頭の片隅にもありませんでした。そして、現職市長が落選するという劇的な出来事に遭遇することになったのです。
トップが交代すれば、方針変更があるのは世の常でしょう。それがどのような形で現れるのか、筆者だけでなく、ほかの関係者も固唾(かたず)をのんで、新年度予算の発表を待ちました。表彰式の際に市史の編さんを市長に懇請した武野要子教育委員(当時)からも、「大丈夫よね?」と書かれた年賀状を頂いたのでした。
市史編さん室は市役所本庁舎の総務局に置かれていましたので、教育委員会に所属していた博物館からは、地理的にも、感覚的にも遠く、うかがい知れることはほとんどありませんでした。しかし、前市長の言というのがあったのか、本来は完結とされてもおかしくない市史編さん事業は、わずかの予算で、首の皮一枚を残してもらったという話が伝わってきました。僥倖(ぎょうこう)というほかありません。
新市長が自治体史編さんをどのように考えてくれるのか、これからまた新しい戦いが始まるのです。
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福岡市史への歩み 【23】
初出:『市史だより Fukuoka』第24号(2019年3月25日発行)
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早いもので、川添昭二(かわぞえしょうじ)先生(九州大学名誉教授)の一周忌を迎えました。ながく福岡市史編さん委員会の相談役をお務め頂いていた先生の突然の訃報に接したのは、平成30(2018)年3月22日のことでした。先生には編さん事業が軌道に乗るまで、数多のご指導をいただきました。この事業は、正史的には田鍋隆男「『新修 福岡市史』が刊行されるまで」(『市史研究ふくおか』第6号、2011年)に記されているような過程を経て今日に至っていますが、今回は先生が福岡市史編さんに対し示された数々のご支援の一端を紹介し、改めて感謝の意を捧げたいと思います。
先生がご自分の研究分野で福岡市と本格的に関 わられたのは、昭和46(1971)年に、福岡市教育委員会から『注解 元寇防塁編年史料―異国警固番役史料の研究―』を刊行されたことにあります。これは文化財保護意識が高まっていくなか、国指定史跡元寇防塁を、建築学・考古学・土木工学に文献史学も加わって総合的に調査研究した際に、文献調査の成果の一端を刊行したものでした。その後の蒙古(もうこ)襲来の研究に資するところ、多大なものがあったと聞いています。時あたかも昭和49年は元寇(文永の役)から700年にあたり、記念事業としても意義のあるものでした。
先生の助言によって、福岡市はさらに元寇防塁を広く周知させるため、『蒙古襲来絵詞(えことば)』(肥後の竹崎季長(たけざきすえなが)が、文永・弘安の2度にわたる蒙古合戦時における、自らの武功を描かせた絵巻)を複製して出版することを計画しました。これは中世武士の思想・武器武具・防塁などを知れる第一級の元寇資料です。複製にあたっては、所蔵する宮内庁の格別のご厚意で、御物(ぎょぶつ)本のカラーフィルムが貸与され、未撮影部分を新たに撮影することや、現物と照合しての色校正・文字解読も許可されました。これまで現物に接する機会がなかった先生は、閲覧をことのほか喜ばれ、京都御所での作業に同行されました。当時、「詞書(ことばがき)(絵巻の内容を説明する文章)部分のカラー写真はなく、研究者はモノクロ写真で研究するしかありませんでした。先生が閲覧の際に、これまで墨書と思っていた箇所が実は「朱(しゅ)書き」だったことを発見して、声を上げて喜ばれたことを今でもよく覚えています。
この一連の刊行を通じて先生は、行政に文献資料の収集と公開の重要性を説かれていました。また、福岡市博物館の常設展示を計画するにあたっては、依拠すべき自前の自治体史がないことを指摘され、その編さんの意義を市役所の上層部に強く訴えて、現在の市史編さん事業の契機をつくられました。
市史編さんの再出発が見え隠れしてきた頃(本誌第21~23号の本コラム)からは、先生は自らの自治体史編さんの体験をふまえて、編さん体制、とりわけ専従の行政職員を配置することを強く主張されました。これは調査・執筆に携わる研究者に事務作業を望むなということで、ややもすると従来の自治体史編さんが、研究者に丸投げに近い形で行われていたことに強く危機感を持たれていたためです。その際、刊行時期の遅れを自ら議会に出向き陳謝したこと、馴れない予算書作りを手伝わされたことなどを、例にあげられていました。筆者も、わずかながら自治体史編さんのお手伝いをした経験から理解できるところがあり、編さん体制づくりの重要さを考えさせられましたが、万全な体制をつくることはとても難題に思われました。それでも編さん室が再スタートするときには、行政事務の室長(課長職)と主査(係長職)、さらに専門職の主査も確保でき、先生に大層評価していただきました。
平成12年に編さん準備予算が付き、本格予算が確保できたのは平成16年度からでしたので、その間、丸4年かかった事になります。それから 15 年が経ち、多くの資料編・民俗編・特別編の刊行を続けています。刊行するたびに、先生のお手元に本をお届けしていましたが、さっそく丹念にページをめくられ、関係者への賛辞を口にされるのが常でした。これからも、先生に順調に刊行のご報告ができることを切に希望しています。
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福岡市史への歩み 【24】
初出:『市史だより Fukuoka』第25号(2020年8月25日発行)
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今回は、昭和34(1959)年から始められた「福岡市史」が終刊し、現行の『新修 福岡市史』編さん事業が開始される経緯についてお話しします。
市役所内部では今後の「福岡市史」をどうするのか、試行錯誤が続けられていました。そのことは外部から市史重視の声が継続して寄せられていたことと無縁ではなかったのです。
平成10(1998)年12月に選出された新市長へ、さまざまな形で市史編さんへの要望が出されました。A先生は、福岡市の歴史についてのご進講をされましたし、B先生は、中国の上海空港で偶然に出会った市長に、日本史のなかの福岡の重要性について延々と話されたそうです。そのような外部からの応援の声はまことに嬉しいものでしたが、山崎広太郎(やまさきひろたろう)市長(当時)から、市史編さんについて具体的な話を聞こうと電話があるまで1年半が経過していました。
こうして総務企画局の幹部と協議が始まりましたが、会議中にG7サミットの蔵相会合を福岡市博物館で開催するというホットなニュースがテレビから流れてきました。何か吉兆的なものを感じた瞬間でした。さらに朗報は続きました。平成12年度予算に市史編さん事業費が新規に518万3000円計上されたのです。総務企画局への予算でしたが、足がかりができた事が本当に嬉しく先生方に連絡しまくった事を思い出します。
サミット蔵相会合の前後には内外の要人が多数視察に訪れました。会場案内はそこそこに本市の歴史解説を熱を込めておこなったことも思い出されます。サミット後には総務企画局や教育委員会総務部との具体的協議がおこなわれ、いよいよ期待感が膨らんでいくのを感じていました。さらに不思議なことには、いくどとなく市長と直接面談する機会に恵まれ、市長の観光・文化面に対する熱意を感じさせられたことでした。予算は少額ながら増額され、それで他都市の市史編さんの現況調査がおこなわれ、本市の現状が客観的に説明できるようになっていきました。
具体的な編さん事業ですが、かつてのように高名な大学教授に自治体史編さんを丸投げできる時代はもはや過去のものとなっていました。行政自体がどれだけ主体性を持ってこの事業に取り組むのかが問われる時代となっていたのです。先回述べたように、九州大学の川添昭二(かわぞえしょうじ)先生にご教示いただきながら、当方の足場を構築する準備を心掛けていました。予算が付けば早速にも動きを見せねばなりません。そこで将来の編さん執筆陣を極秘裏に想定し、参加を約していただく必要がありました。いつ何時事業予算が付くのかわからない段階で、予算獲得の暁には、早速福岡市史編さんへ参画をしてもらうという虫の良い話に乗っていただく必要があったのです。
平成16年度予算の審議が始まりました。博物館からは、平成2年の開館時から10年余を経て古びた常設展示のリニューアルと市史編さんとを重要事項として提出していました。しかし財政局長への復活折衝では、リニューアルは不可、市史は「三役経営会議」へ復活要求せよというものでした。財政局長段階で、現予算の900万円余を少し超える予算を付けられると、さらに上位の段階に復活要求をする事は実質上不可能です。市長・助役ら三役の判断を仰げる「経営会議」は福岡市における最終意思決定の場であるのです。財政局長に感謝したい気持ちでした。
平成16年1月20日、筆者のプレゼンテーションの番です。サミット等において誇りを持って披露できる印刷物をという話はなかなか通用しそうにありません。思わず起立して「私はこの3月で定年です。市史編さんを目指し、研究者諸先生方には多大の協力をいただいてきましたが、市史編さん予算が微増なら要らない。ゼロ回答をください。今なら、私の責任で、研究者諸兄にはお詫びを申し入れますから」と言い、着席しました。一瞬間があって市長が「1億はダメだが、7000万円でやってくれ」と発言され、皆が啞然としていましたし、筆者も驚きました。1月30日、7000万円が正式に言い渡されたのです。
4月1日、歴史ある「福岡市史編さん室」の看板が福岡市博物館の一室に掛けられました。編さん事業が本格的にスタートしたのです。まことに嬉しい退職記念となりました。
24回にわたって「福岡市史」の道のりを振り返ってみました。独りよがりな点も多々あったかと思いますが、よろしくご海容ください。
※ 市史編さん予算に関する数字は各年度ごとに福岡市が発行する「一般会計及び特別会計予算案説明書」に拠った。
※ なお、本稿は『市史研究 ふくおか』第10号所載の田鍋隆男「『新修 福岡市史』が刊行されるまで」とあわせてご覧いただければ幸いです。
[終]
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