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初出:『市史だより Fukuoka』第2号(2006年3月15日発行)
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福岡市史編さん事業が始まりました。市史編さんを待望していた一人として、誠に喜ばしい限りでありますが、同時に、現今の厳しい財政状況にもかかわらず、本市の歴史を纏めることの重要性に思いを致してくれた首脳陣に、深く敬意を払うものであります。福岡と言う、国内では他に比較する地域がない程の、重要で数多くの歴史事象に彩られた都市の足跡を辿る一大事業がはじまったのです。そのためには、この編さん事業は長年月掛かるでありましょうし、従って多くの人材、費用を必要とすることが容易に考えられるのです。一層心を引き締めて掛からねばならないと考えています。
この編さん事業そのものが本市にとっての歴史であります。そのため詳細な公式記録が記録され公表されていくでしょうが、それとは違って、より卑近な事柄も後世に残しておきたいと考えています。まさに稗史を記しておくことも必要だと考えているわけです。これから何回かにわけて、市史をめぐる様々な事々を記していきますが、本稿はあくまでも筆者の主観に基づいたものであって、編さん事業の公式記録とは一線を画すものであることを最初にお断りしておきます。
福岡市と市史との関わりについて先ず辿ってみましょう。
本市では昭和30年代から都市化が進み、それに伴って公的な埋蔵文化財発掘調査が必要となってきました。最初は国や県主導による文化財行政でしたが、次第に福岡市が独自性を発揮し始めたのは昭和40年代からと考えられます。つまり福岡の歴史風土を踏まえた文化財行政の必要性が増してきた訳です。換言すれば市史の必要性が出てきたと言うことです。
しかしながら結論的に云うと、その当時は福岡の原始古代から現代までを見通す市史は編さんされていなかったのです。口の悪い文化財行政の先達が、うがった見方を教えてくれました。曰く「福岡市は手近に九州帝国大学の史学科があったため、困った時には福岡県史を捲るか、九大の先生に頼めば何とかなってきた」というものでした。誠に妙に納得できる言葉として受け止めたことでした。
昭和47年、福岡市は政令指定都市に昇格し、更に文化財行政を円滑に行うため福岡市文化財保護条例の制定が行われ、いよいよ行政の独立性、独自性を示していくようになります。必要性に迫られて、役所の書棚に並ぶ、金文字入りの『福岡市史』を繙(ひもと)いてみますと、その内容は、対象となっている時代は明治期市制施行以降の、主に行政史として纏められたものでした。そして昭和編が編さん途中という状況だったのです。これでは古い文化財の歴史的背景を理解することは出来ません。
それでは市内部では、原始以来の本格的「市史」編さんは必要視されてこなかったのかというと、実はそうとばかりは言えない実情でした。次回は福岡市の市史への対応を概観してみましょう。
画像:市史編さん室の看板。かつての市史で使われた。今回も編さん室の入口にかかっている。
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初出:『市史だより Fukuoka』第3号(2006年6月30日発行)
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今回からは、福岡市の市史への対応が過去どのようになされていたかを、編年的に見てゆくことにします。福岡市史そのものは名称の違いはあれ、内容的に市史と称しているものは何種類か存在しているのです。
修史編纂(しゅうしへんさん)事業を始めるきっかけにはさまざまな形があると思います。時期的に少し安定してきて、一息つけるようになって、現在にいたる沿革を考えようとする時であったり、外部からの要請あるいは刺激で始める場合などでしょうが、何かそれなりの契機・区切りがあるものです。
区切りとして公私ともによく使われるものに周年記念があります。事業の必要性を問われるとき、「周年記念事業」で実施するという考え方は、あまねく受け入れられやすい考え方なのです。この観点で福岡市の修史編纂事業を考えてみます。
ご承知のとおり、旧福岡藩は藩祖黒田如水(くろだ じょすい)・初代長政(ながまさ)から十二代にわたり、幕末まで黒田家が藩主の座を占めた藩でしたが、幕末の動向に一貫性を欠き、佐幕(さばく)派と見なされる行動をとったため、そのゆえか明治政府の対応ははかばかしくはありませんでした。太政官札贋造(だじょうかんさつがんぞう)事件では担当者の処罰に留まらず、旧藩主の更迭にまでおよび、藩内の動揺は隠せないものだったでしょう。竹槍騒動、士族の反乱などなど、新政権下の大事件は福岡県の中でも吹き荒れました。明治22(1889)年、福岡は市政をしくことにともない、市の名称を福岡市か博多市かどちらにするか、全市をあげての大論争騒ぎもありました。激動の時代であったことがうかがえます。
大正年間の初めには市史編纂の必要性が行政の中で唱われ、「市史編纂大綱(たいこう)」作成のための調査がなされていたようで、昭和2(1927)年には担当者が任命されています。ついで昭和13年には市制施行五十年史の編纂に着手し、翌14年3月には待望の『福岡市市制施行五十年史』全一巻が刊行されています。わずかに一冊だけの小冊子出版ではありましたが、民間からも市制五十周年を記念する刊行物が出版されたりしていますので、周年事業としては成果があったと評価して良いと考えられます。この後も市史編纂担当の職員(身分的には嘱託)が任命され続け、小規模ながら編纂事業は継続されていたようです。
昭和25年からは担当者が嘱託から正式職員となるとともに、「福岡市史編纂の構想」が作成され、さらに編纂委員会規程が設けられるなど、市側の編纂体制に変化が見られ、順調に走り出すかに見えましたが、第一回目の編纂委員会が急に流会になり、事業が無期延期とされました。理由は予算捻出不可能と時期尚早ということですが、理解しがたい理由と言うほかありません。
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初出:『市史だより Fukuoka』第4号(2006年12月20日発行)
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前回より、福岡市の従来の市史編さん事業を、そのはじめの頃から回顧し始めたところです。本市は市制施行以来、自治体史編さんにはあまり熱心な取り組みをして来なかったのは事実です。しかし前回報告したとおり、大正年間から修史編さん事業には及ばずながら着手はしていたのです。先人が残してくれたさまざまな記録類から当時の編さん状況をしばらく眺めてみたいと思います。
大正9(1920)年11月、宇佐書記が市史編さん大綱調査を命じられているのが、編さん事業の第一歩と位置付けられています。個人名が記録されているのは、これがはじめてですから正確なことと考えられますが、現在では当時の業績はわかっていません。今後しだいに明らかになることを期待しています。
編さん事業がさらに具体的になるのは、昭和2(1927)年1月、永島芳郎氏が市史編さん嘱託に任じられてからということになります。編さん室が設置されたのかどうかは知り得ませんが、昭和4年11月には「筆耕」(ひっこう)が一名雇い入れられています。順調に業績を上げ得たのか、約2年半後の同7年4月には、さらに「筆耕」一名が増員になっています。永島氏は大変几帳面な人だったようで、日々の業務内容を「日誌」として詳細に記録しています。幸いにも昭和八年度の「事務日誌」がありますので、これによって当時の編さん業務のありさまを紹介します。
昭和8年4月1日、新年度の幕あけに記されているのは、臨時雇いだった編さん係員が正式な「福岡市雇」職員に昇任発令されたことでした。市議会議員や訪問者が来室して、展覧会案内状が舞い込み、市内の寺社の来歴について取材に応じる記事が並んだ最後に「新年度新興更生ノ気新タナレトモ左右益々多忙ヲ加ヘム乎(か)」と新年度に対する気概を述べています。確かに部下職員の昇任に引き続き、暇のないほどの来訪者の訪れは、士気高揚に十分役立ったものと思えます。
次の日からは日常業務が始まっていますが、いくつかに区分できそうです。それを検討すれば、編さん室がどのような役割を与えられていたかが理解できるでしょう。
まず第一は、福岡市公報への寄稿があげられます。町名由来、福博名所、史影片々という題名で原稿が提出されています。依頼から完成まで短時間が多いということで、常に原稿が用意されていたとも考えられますが、不意の原稿不足を埋めることがあったのかもしれません。むろん、マスコミ等からの歴史的事象の由緒記事の執筆依頼等もこなしています。
市史編さん担当ですから、市内および周辺地域の史料再訪に出かけていることもまま散見されますが、ほんの数件で、人数の制約からかあまり活発にはおこなわれていないのが実状のようです。史料に直接あたる機会は少なかったようですが、郷土史家達文化人との交流は大変なものでした。今日でも多くの業績が知られる人々、たとえば、筑紫頼定(ちくし よりさだ)・豊(ゆたか)兄弟、三宅安太郎(みやけ やすたろう)、大熊浅次郎(おおくま あさじろう)、三松荘一(みまつ そういち)、佐々木滋寛(じかん)、許斐(このみ)友次郎、武谷水城(たけや みずき)など、まさにきら星のごとき郷土史家たちが、市史編さん担当のデスクに立ち寄っていることがわかります。
歴史に強いという理由からでしょうか、文化祭事、起工・竣工式等について、福岡市としての祝辞、式辞の起草は枚挙にいとまがありません、自ら勤務時間の多忙さの原因と位置付けていることで明白です。
歴史に強いという事で特筆すべき事があります。それは博多区吉塚にあった薬王密寺東光院(やくおうみつじ とうこういん)の保存運動を行った事です。
本寺は大同(だいどう)元(806)年に創建されたと伝えられ、薬師如来立像をはじめとして25体におよぶ旧国宝(現在は重要文化財)を擁した古刹ですが、財政的に困窮し、仏像の保存も危惧されていました。永島氏は筑紫頼定氏らとともにこれの保存運動に参画し、文化財の保護と収蔵庫の建設に尽力しました。市史編さん事業の多面性・柔軟性が要求された典型的な活動事例です(なお、これらの文化財は後に福岡市に寄贈され、現在福岡市美術館で公開されています)。
このように精力的な活動をしていましたが、年度末の予算編成時の苦労は大変なものであったようで、その様子が文脈にあらわれています。このことについては次号で報告したいと思いますが、いつの時代も変らないものだと、感心したり嘆息したりしているところです。
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初出:『市史だより Fukuoka』第5号(2007年6月30日発行)
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前回は、昭和8年度の編さん室業務として、福岡市公報への原稿執筆、史料調査、郷土史家、ほか文化人との応接、文化歳事や起工・竣工式などへの福岡市からの祝辞・式辞の起草などが目立つ業務であると挙げておきました。
編さん室業務は日誌からだけでは具体的には判りませんが、上記の様子からすると、当時の編さん室は文化的な香りがする、市役所内では珍しい存在だったのではないかと想像されます。職員数は全部でも300人余くらいだったので、生活に密着した部署がほとんどで、特別な事があればすぐに編さん室に依頼が舞い込むという具合だったようです。前回記しました薬王密寺東光院(やくおうみつじとうこういん)の一連の保存運動は、行政が絡んだ宗教施策の感があるかと思いますが、実は編さん室が対応するしかない、そんな問題だったようにも考えられます。
東光院は寺伝では大同(だいどう)元(806)年に最澄(さいちょう)(伝教大師(でんぎょうだいし))によって創建され、中途一時禅宗に変わりましたが、江戸時代には二代藩主黒田忠之(くろだただゆき)の庇護を受けて、真言宗寺院として活況を呈したといわれます。本尊は藤原時代の作である薬師如来立像と、尊像を守る十二神将です。明治維新に伴う神仏分離策で、博多区の住吉神社から薬師如来座像と十二神将がもたらされ、東光院は一挙に藤原仏の殿堂となりました。大正年間までには仏像25躯が、「国宝」に指定されています。しかしながら本寺は藩主の祈願寺であったため、明治になって藩の経済的支援がなくなると、急速に経営が悪化していきました。そこで市内では、質と量とにおいて類例のない仏像群の保存を訴えて、当時の文化財関係の人々がさまざまな支援を求めて運動を起こしたのです。市史編さん事業とは直接関係がありませんが、文化財保護の観点からは、福岡市関係者としては編さん室が最右翼にいたということになりましょう。なお、保存運動は軌道に乗り、国庫補助事業として収蔵庫が建設されています。
編さん室の市政への対応が順調であったためか、市長から特に「祝辞が好評である」との言葉があり、感激した永島は直接市長に要請した増員の実現に自信を持ったようです。再三にわたって庶務課長と折衝をしています。当時670万円余の市の年間予算の内、編さん室は、2500円の経費を得ていましたが、12月初めには次年度の予算要求書を提出しました。
翌年1月に予算査定があり、縦横の説明をした模様ですが、「下情上達せず」と担当官の無理解を憤っています。3月6日の内示は、印刷費500円を削減するという内容でした。永島は驚き、直ちに費用内容を明記して、復活要求を庶務課長に懇請しました。翌7日削減理由が伝えられ、その500円は在郷軍人の補助金増加に充当するというものでした。
あまりのことに気落ちしていましたが、3月15日には印刷費削減を各方面に了解を求めていることからすると、何か印刷の話が内々進んでいたのかと思われます。一方増員の件では、3月29日に回答があり、「他の振り合いもあり」ということで婉曲に拒否されました。ここに昭和8年度の諸要求は予算が削減されるという結果になったのです。
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初出:『市史だより Fukuoka』第6号(2007年12月15日発行)
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前回、前々回の2回にわたって、『昭和八年度 事務日誌』をもとに、当時の市史編さん室の事業内容、活動状況などについて見てきました。そこには、市史編さんという大義は理解してもらえても、年次計画などの細部に関する取り決めがどの程度協議され、決定されていたのか、一切見当たりません。『事務日誌』を見る限りでは、関連部門間の確認が取れた要綱的なものがなかったために、年次目標も立て難く、積極的な資料調査、資料収集という基礎的な編さん業務もしづらかった、ということかもしれません。それでも組織体の常として、周年記念事業は何がしか実現しようとするものです。
現実に市史編さんの動きを見ていますと、大正9(1920)年11月、宇佐書記が市史編さん大綱調査の命を受けていますが、これは福岡市制30周年の翌年のことです。このことから、市史編さんの必要性が説かれたのは大正の初めごろとされていますが、それが形となったのが30周年を迎えてからの事と考えることができるでしょう。永島芳郎が市史編さん嘱託に命じられたのが昭和2(1927)年ですから、昭和4年の市制40周年を控えての人事配置だったように考えられます。しかし実際には、昭和8年の段階でも何ら具体的な動きは見られなかったのです。
さてそんな中、通史的なものを出版し郷土を知らしめようとする団体が現れました。福岡市教育支会(後の福岡市教育会)です。会は、昭和3年4月にわずか250頁くらいの小冊子ではありますが『福岡史要』という本を刊行しています。その序文の一部を抜粋すると「抑(そもそも)郷土を理解し之(これ)を研究し、文化発展のあとを探り愛郷の精神を涵養(かんよう)することの喫緊(きっきん)なることは今更喋喋(ちょうちょう)を要しない処(ところ)である。(中略)然(しか)るに翻って我福岡市に於ける所謂(いわゆる)郷土史ともいふべきものを繹(たず)ぬるに、その梗概(こうがい)を誌せしものすら、之を見当らないのは、深く遺憾とする所である。されば我福岡市教育支会は、たとひ小規模のものなりとも編纂(さん)の速やかならんことを、満場一致を以(もっ)て決議し之が実現を期したのである。」と出版の意図を記し、種々の故障で延期したので、福岡市史編さん嘱託永島氏に依頼して多年の目的を達し、欣快(きんかい)に堪えないと謳(うた)っています。一方永島も公務多忙、短期即席の内容を大いに嘆いていますが、この執筆を喜んでいる節も感じられます。そしてこれには、続編的な本があるのです。
『福岡史考』と題した本書は、昭和11年4月に発刊されました。出版の意図についてはその序文によると、福岡市教育会は先に『福岡史要』を発行したが、以来10年を経、永島氏の市史研究が進み、史料も集まったので、再度出版することとした、とあります。また永島も自序で、先書の編集に飽き足らず思っていたため、改訂することには積極的に賛同したとし、内容も、先書では章立てが、歴史と郷土の先人たち、さらには史蹟と伝説が独立し、中心となっていたものを、歴史事象を編年的に記述しながら事件や人物、地誌も平易にすることで通俗的読み物としての体裁を整えており、先書よりも一段と分かりやすいものとなっています。
思うに市史編さんの余儀として編集に加担したように見えますが、行政の中の満たされぬものをこのような形で発散していたのかもしれません。
画像:『福岡史要』『福岡史考』(福岡市総合図書館蔵)
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初出:『市史だより Fukuoka』第7号(2008年6月30日発行)
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何回かに分けて昭和10年前後の福岡市史編纂の状況をみてきましたが、編纂室を設置していた割には編纂事業は形を成していないことがお判りいただけたものと思います。市役所の中にあっては、組織的にも、また事業予算的にも要求は満たされてはいないので、編纂事業は進展するきっかけも掴めていなかったものと考えられますし、次第に戦時色が色濃くなりつつある時代とあっては、過去を振り返ることが時勢に合わないことだったのかもしれません。しかしながら郷土史家の活動に目を転じてみると、大正3(1914)年4月に、高野江基太郎(こうのえきたろう)によって創刊された『筑紫史談』、さらには大正14年9月に有吉憲彰が創刊した月刊誌『福岡』は共に順調に巻数を数え、多角的な視点からの研究を毎号満載しています。その寄稿者はといえば、官民あいまっての大集合で、綺羅星(きらぼし)のごとき有様でした。そのような状況下で、永島主任は先回ご紹介したように、福岡市教育会からの依頼で、福岡市史便覧的なものの出版に携わっていたのです。市史編纂担当という立場は善くも悪くも活躍を余儀なくされていたようです。
昭和13(1938)年は市制施行50周年にあたり、市史編纂事業にとっては恰好(かっこう)の動機づけになると考えられます。普通に考えると大いに飛躍のチャンスと考え、事前に様々な計画を策定したと考えられるのですが、残念ながら、そのような動きを知らしめる資料はいまだ発掘されていない状況です。
国において自治制発布50周年記念事業が行われるにあたり、規模はともかくとして地元でも同様な記念事業が計画された模様で、国に遅れることちょうど1ヵ月後の5月17日に、自治功労者の表彰、物故者の慰霊、記念講演会を中心とした式典が行われています。「聖戦中」であるとの認識からか華美ではなく「市民総力を以て自治報国確立をはかる」事が優先された内容であったようです。ただ式典に先行して4月9日より同20日まで、市教育会、市通俗博物館の主催で『市制施行五十周年記念大福岡発展史展覧会』が開催され、政治経済、教育観光、風俗娯楽の3部門に分けて展示されましたが、会場となった岩田屋百貨店では空前の盛況を呈したとされているのが目を引くぐらいです。
さらに特筆すべきは、これを機に『福岡市市制施行五十年史』が編纂刊行されたことです。330頁余の小冊子ですが、編者永島芳郎の「はしがき」によると大変興味深いことが記されています。
この冊子は昭和13年4月に着手し9月に脱稿したとあって、市史編纂担当が専任しているにしては、短期間に製作されたもので、数年前から出版が計画された様子は窺(うかが)えません。通例ですと、記念事業のひとつとして式典開催時に出版配布するのが一般的と考えられますが、実際には原稿締め切りが9月、市長代理助役の序文が10月に作成され、翌14年3月に発行されました。せっかく編纂室が置かれ、永島主任以下4名の体制があるのですから、記念出版は事前に計画し、戦中にもかかわらず式典を挙行するならば、それに合わせて出版すべき事柄と思えます。このことから、この出版は突発的な事業ではなかったかと考えられ、正確な出版経緯が是非とも知りたいと思うのは筆者一人ではないと思います。永島主任が文中「杜撰(ずさん)」という単語を3度も記さねばならなかったのは、心底残念だったからにほかならないでしょう。
ともあれ、明治22年(1889)年からの市勢発展の動きは、主要テーマごとに、統計資料的にまとめられましたが、通史的な記述が成されたわけではなく、本格的な作業は次回に送られました。
画像上:市制発布五十周年記念式の様子(『福岡市市制施行五十年史』より)
画像下:『福岡市市制施行五十年史』装幀や紙の粗悪さが戦時中の刊行であることを物語っています
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初出:『市史だより Fukuoka』第8号(2008年12月15日発行)
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前回は、市制施行50周年を記念した表彰式ほか一連の行事のほかに、昭和14(1939)年3月に出版された『福岡市市制五十年史』が、内容的には、明治22年の市制発足以来の人事や行政全般に関する統計資料を編纂したものであったことを報告しました。
さて、現在うかがえる資料からは、戦時中の編纂室の動向はまったく不明と言わざるを得ないのは残念です。いろいろな雑誌に寄稿していた博覧強記の永島芳郎主任の小論も、残念ながらあまり見かけません。しかしながら、前述の『福岡市市制五十年史』がわずか6ヶ月で脱稿したことからも、各種の資料収集とその整理は、着実に継続されていたであろうことが容易に理解できます。収集整理された史資料や図書類については、終戦間際に疎開したと伝えられていますが、戦後の混乱と、昭和23年永島主任の死去にともない、その多くが行方不明になっています。
永島の後任として起用されたのは伊東尾四郎(いとうおしろう)氏でした。
伊東氏は地方史研究者として定評のある人です。明治2(1869)年、宗像郡東郷(むなかたぐんとうごう)(現宗像市)に生まれ、福岡中学校初等科、第一高等学校を経て、帝国文科大学国史学科を卒業、福岡県豊津(とよつ)尋常中学教諭を経て、県立小倉中学校校長を歴任しました。大正5(1916)年には福岡県立図書館長としてその創設に尽力し、一旦教職に戻ったのち、昭和5年には福岡県史料調査事務の嘱託となって、昭和24年没するまでその任に従事しています。この時、不朽の名著となった『福岡県史資料』12巻、『福岡県史料叢書』10冊を主著として、主に北部九州の市史、郡史を多数手がけています。
福岡市はこれらの実績を高く評価して、市史編纂の嘱託に就任依頼を行い、市史編纂事業の充実を図ったものと思われますが、その意に反して、伊東氏は就任の翌年死去されました。
ただちに後任の人選が進められ、昭和25年3月、小野有耶介(おのうやすけ)が嘱託として発令され、3ヶ月後には事務吏員に昇任、教育部社会教育課に所属(27年頃総務課に移管)して、新たに編纂事業に着手しました。しかし、前任者の不幸なども重なり、編纂室の収集史資料や図書類は、散逸状態だっといわれています。
画像左:『福岡県史資料』/画像右:『福岡県史料叢書』
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初出:『市史だより Fukuoka』第9号(2009年7月15日発行)
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昭和25(1950)年6月、新たに市史編さんを命じられた小野有耶介(おのうやすけ)は、その任を果たすべく活動を始めます。同年10月、「福岡市史編纂(へんさん)に対する構想」を作成しました。彼の市史編さんに対する基本方針を凝縮したものです。これは、B4サイズの和紙用紙4枚に和文タイプライターで浄書されたもので、『1.総説』、『2.執筆基準』、『3.編別表』、『4.目次案』が中心となっています。どのように使われたものかはわかりませんが、まさに市史編さんに対する構想を読み取ることができます。
『1.総説』では、「わが国史書の通弊である単なる英雄譚(たん)に終始することなく、悠久その始原を知らない歴史的存在、みなとはかたの生成発展の実相を明確且つ動的に把握する。従ってここに記述されるテーマは、英雄の行動記述の他に、さらに空間的には九州乃至(ないし)日本における博多の価値、対外交流乃至貿易基地としての博多の機能等、商業貿易都市としての博多の実態であり、時間的には破壊に次ぐ破壊になお生成発展して止まない博多の躍動であり、人的には古来海に生くる人民の、しかも異と同化する民主的人民の歴史である」としています。
『2.執筆基準』で特徴的な事を抽出すると「伝説、口伝などは参考にとどめ、国内外の原資料に拠ることとする。特に古代史においては考古学的考察を併施する」とした事でしょう。以下は紙数のため省略します。
この方針に沿って、同時に年次計画を作成し、年度ごとに時代区分を割り振って資料を収集調査する事としていました。結果的にいえば、残念ながらこの年次計画は計画通りにはいかなかったようです。
しかし特筆すべき事が決定されています。同年11月30日、構想を実現するために「福岡市史編さん委員会規程(庁達第23号)」が正式に設置され、編さん事業が市政のなかに正式に規定されたことです。編さん委員会の設置、委員会の業務、組織、運営、学識経験者の顧問化等に言及した、わずか6か条10行ばかりのものですが、制式化されたことに大きな意味があります。昭和26年7月、編さん委員を決定し、委員会を開催するところまで進みましたが、委員会はそのまま無期延期になりました。理由は「予算捻出が不可能」と「時期尚早」という事でした。しかし、小野は予算措置がないことがネックと考えたのでしょうか、翌年6月には編さん委員長宛に市史編さんの重要性を説き、予算措置を求める上申書を作成し、実現へ向けて果敢な努力をしています。
当時の社会状況としては、財政事情も敗戦直後からすれば好転しかけていたのでしょうが、朝鮮戦争が勃発しており、社会全般的には不安定な状況があり、いま少しの時間が必要とされていた頃だったようです。
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