中央区ものしり手帳
第九話 日の出と正午を知らせた号砲


日本の標準時が定められたのは、明治19年のことです。

当時の市民の習慣として、会議などを行うとき、約束の時間より少し遅れて集まる「博多時間」という感覚が定着していました。
従って、市民の認識している時間はばらばらで、不都合が生じていました。

そこで、この状況を変えようと、郷土史家の江藤正澄が実業家の古賀勇夫と共に、標準時を知らせる私立号砲会社を、明治21年に設立しました。

肝心の大砲は、江藤が銃砲火薬店の西村庄平に相談し、大阪砲兵工廠(こうしょう)から購入。
当時の値段で100円でした。

大砲は、須崎のお台場に据え、21年7月22日から日の出と正午の2回発砲することになりました。
写真:午砲場所の石碑(港3丁目)
当初は砲口を博多湾に向けていましたが、聞こえにくいとの苦情があったため、街の方に向けて発射するようにしました。

すると今度は、住民から音がうるさいと苦情が出ます。
そのため、22年に西公園の山上に場所を移しました。

また、火薬に多額の費用がかかり会社の経営を圧迫したため、同年8月以降は正午1回のみとなります。
23年1月には運営に行き詰まり、号砲は中止となりました。
写真:市博物館所蔵の午砲「ドン」
市民に「ドン」で親しまれていた号砲が無くなると、不便さや音が聞こえない寂しさから再開してほしいとの要予約望があり、明治25年から市が正式に譲り受け「ドン」を再開しました。

その後、昭和6年3月31日市庁舎にサイレンが設置されるまで、正午の時報「ドン」は福岡の空に鳴り響いていました。

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