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東公園亀山上皇銅像の当初計画は騎馬武者像であった
初出:『市史だより Fukuoka』第19号(2014年8月30日発行)
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明治4(1871)年11月に右大臣岩倉具視(いわくらともみ)ら政府要人一行は、欧米先進諸国視察の旅に出発した。その随行員のなかに安場保和(やすばやすかず)がいた。安場は偉人のモニュメントを広場や公園に建立して顕彰し、今後の示唆を得ることが先進国で行われていることを目の当たりにした。安場は明治19年2月に福岡県令(知事)になったが、その年の8月に長崎で、上陸した清国北洋艦隊水兵による騒乱事件が起こった。巡査が死亡したこともあって福岡警察署長湯地丈雄(ゆぢたけお)は、元寇を想起し、護国思想高揚のために記念碑建設を発起した。安場も賛同し発起人の一人となり、建設費を募集するための広告もつくられた。
明治22年7月刊行の「元寇紀(ママ)念碑建設義捐金募集広告」の完成予想図には、高さ約35メートルの石柱の上に高さ1.5メートルの騎馬武者の像が描かれている。この騎馬武者図は旧国立銀行券の一円紙幣に描かれた元寇の戦闘図に基づく。旧国立銀行券はアメリカで印刷されており、そういえば米国人がデザインしたこの図は、米大統領官邸北側の公園に建つ第七代大統領ジャクソンの騎馬像を想わせる。
明治23年には湯地は官職を辞して募金活動に専念することにした。ところが明治25年の第2回衆議院総選挙で、安場知事は政府系候補者が勝利するように大々的な選挙干渉を行い、なんとその活動資金に湯地が集めた寄付金全部を使ってしまった。後の河嶋醇(かわしまじゅん)知事は同じく元寇記念碑として日蓮上人銅像を建てようとしていた日蓮宗僧佐野前励(さのぜんれい)に、日蓮を迫害した北条時宗の騎馬像でなく、護国祈願をした亀山上皇の銅像にすることによって協力を求めることにした。明治35年に博多出身の彫刻家山崎朝雲による原型(筥崎宮に安置されている木造像)が完成し、佐賀市の谷口鉄工場にて鋳造されて、明治37年12月25日に除幕式を迎えた。ちなみに日蓮上人銅像は前月8日に除幕式が行われている。(田鍋隆男)
画像左:元寇紀念碑建設義捐金募集広告(部分)福岡市博物館蔵
募集広告の趣意書に掲載された完成予想図で、石柱の上に立つ騎馬武者
画像右:旧国立銀行券の1円券(明治6年8月23日発行)
裏面には、広告(上図)の図案の下地となった元寇戦闘図が描かれている
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百道(ももち)海水浴場に水上機の飛行場があった!
初出:『市史だより Fukuoka』第20号(2015年1月31日発行)
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大正七(一九一八)年七月七日に、福岡日日新聞社(いまの西日本新聞社)は百道海水浴場を開設した。脱衣所や休憩所・売店、そして救護所といった諸施設、海上には滑り台や飛び込み台などが整備され、さらに福博電車の終点今川橋(いまがわばし)停留所から歩いて五分と、交通の便の良さもあって、昭和30年代頃までは大勢の海水浴客で賑(にぎ)わった。この白砂青松の百道海水浴場が、民間航空事業の黎明(れいめい)期に、水上飛行機の発着場の候補地となった。
大正13年、大阪の木津川(きづがわ)飛行場を本拠地にした日本航空株式会社(以後日航と略、いまのJALとは別会社)は、既設の大阪─別府間の航空路線を延長して、大阪─福岡航空路を開設するため、百道海水浴場に出張所を設けた。当時の新聞によれば、4月11日、別府から杵築(きつき)─宇島(うのしま)─多々良川(たたらがわ)─百道のコースを通って、水上機が百道海水浴場に飛来した。15日には福岡上空を低空飛行したり、機体から下がった縄梯子(なわばしご)に同乗者が片手でぶら下がっての曲芸をして福岡市民の注目を集めた。18日には福岡から大阪へと復航して、週一便の試験運航を始めた。7月26日には、料金10円の遊覧飛行を催した。28日の便は箱崎汐井浜(はこざきしおいはま)沖合に着水し、筥崎宮(はこざきぐう)神官のお祓(はら)いを受けて、本殿廻廊修築寄付金募集の広告を積み込み、大阪へと離水した。8月には15分間の博多湾一周飛行を行って市民に楽しんでもらい、百道出張所に海軍大尉が出向いて定期運航を見守ったりしていたが、日航は9月2日に、水上飛行機の発着場を西公園東側の入船町(いりふねちょう)(現 中央区港)の海岸に移転することにした。わずか4ヶ月余の百道飛行場であった。ちなみによく知られた名島(なじま)飛行場からの大阪─福岡間の運行開始は昭和4(1929)年のことである。(田鍋隆男)
画像左:水上飛行機(『福岡日日新聞』大正14年4月21日、西日本新聞社蔵)
試験運行から1年後、わが国最初の郵便飛行機(日本航空株式会社)が、大阪から3時間45分かけて入船町の発着場に着いた
画像右:よかトピア通りの百道浜橋の西詰(早良区西新2丁目)にある百道海水浴場跡の碑
- 【市史こぼれ話】 考古学の第一歩 土からモノを取り出す
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考古学に関心がある方からよく聞く言葉に、「ハケで土を払うんですよね?」というものがあります。テレビや新聞ですっかりお馴染みのこのシーンは、考古学=ハケというイメージを与えているようですが、実はこのシーン、膨大な考古学作業のほんの一幕、「遺物(いぶつ)の清掃」という作業なのです。
しかし中には、ハケでも壊れてしまいそうなモノがあります。そんな時は、竹串などの道具を駆使して丁寧に丁寧に取り出すのですが、手に負えない時は、土ごと取り出したり、科学の力を借りることもあります。
難敵を少しご紹介してみましょう。
- 木器…土の中では腐ってしまうものも、水分量の多い所では遺ることがある。脆くなっている上に、水を吸って異常に重くなっている。
- 漆器…木材などが腐って、木に塗った漆と模様だけが遺っていることがある。最難敵のひとつ。
- 鉄……サビで原形をとどめない物も多く、油断すると劣化が進む。水と塩分に弱い。
- 銅……風化して軟らかくなっている場合がある。酷いものは粉をふいている。
遺物を取り出すこと一つをとってみても意外と大変な作業です。考古学という華々しいスポットの裏で、現場では、連日「土との格闘」が行われているのです。
調査成果は、現場ごとに調査報告書としてまとめられ、考古学の一般書などに参考資料として活用されています。報告書は専門的で少々難しいものですが、図書館でも閲覧できるので、興味のある方はひもといてみて下さい。
画像(2点とも):老司瓦窯跡調査風景(福岡市文化財活用部)
- 【市史こぼれ話】 福岡市史『資料編 考古3』の紙選び
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『資料編 考古3』の刊行がじわじわと迫ってきました。平成22年度の刊行予定ですから、裏方の事務局も気を引き締めて、いろいろなシミュレーションをしています。考古専門部会の先生方には編集会議で、頁数や、どのような構成で、またどうすれば読みやすくなるのか、議論を重ねていただいています。
さて、編集会議のたびに内容が煮詰まっている昨今ですが、近々、内容とは別の現実的な問題「どのような紙を使うのか」の検討にとりかかります。
考古学の専門書では、図や表、写真が多用されます。出土遺物や遺構の実測図、データを一覧化した表や、それぞれの写真は、発掘調査の成果を報告する上で必要不可欠なのです。いろいろな方とお話をさせていただくと、土器の実測図があれば写真は要らないだろう、という意見を聴くことがあります。また逆に、写真を載せれば実測図は要らないのではないか、という意見もありますが、いやいや、そうではないのです。写真と実測図は同じものを伝えているように見えて、実は全く違う情報を伝えようとしているのです。実例をお目に掛けましょう。
図1・2をご覧ください。これは、早良区の藤崎遺跡でみつかった、弥生時代が始まったころに作られた小型壺の写真(図1)と実測図(図2)です。写真は少し上から見た状態ですから、壺の丸さが強調されて見えます。一方、実測図は真横から見た状態ですから、大きさを調べたい時はこちらを参考にします。
お気づきでしょうか? 写真の壺では見えにくい紋様が、実測図でははっきりと表されています。また日本の実測図では、右側で断面を表現する決まりがありますので、底が少しくぼんでいることや、壺の厚さもわかります。このように、実測図では遺物を詳しく観察した成果を表しています。
一方、写真でしかわからないこともあります。ツルンとした表面や、この壺がほぼ完全な形で遺っていることなど、文章で伝えていることが一目瞭然です。この壺の場合、写真では、主に見た目の質感・客観的な形といった第一印象のようなものを伝えています。
文化財は全て貴重なものですが、中でも優品と言われるものほど、報告するときには、いろいろな情報を遺し、また伝えようとしているのです。
さて、その伝え方ですが、写真も実測図も、文字のように判読を目的とするものではありません。感覚的に伝えなければならないので、一色で表現する印刷でも微妙な調整が必要となります。この微妙な調整をするには、それが可能な「紙」を選ばなければならないのです。
そこで選択肢としてまず現れるのは、「アート紙」という紙です。これは図面や写真を表現するには良いとされる代表選手です。しかし、アート紙には光沢があるので、文字を印刷すると、読みにくくなります。
そして次なる候補は、10年程前からよく使われるようになった「マット加工アート紙」。これはアート紙の表面に光沢を押さえる加工を施したもので、写真や図の表現はもとより、文字を印刷しても読みやすくなっています。しかしこの紙は、非常に重たいのです。『資料編 考古3』は800頁前後を目指して計画していますので、片手で持ち上げるのが難しいほど重たい本となってしまいます。
紙選びの条件を列挙してみました。
- 写真・図面の表現を妨げないこと。
- 利用を妨げる重量にならないこと。
- 傷みにくく長持ちすること。
たった3件にしぼったとしても、シンプルなように見えて、意外と難しい紙選びです。さて、この条件を満たす「紙」とめぐり逢えるでしょうか?
図1 福岡市教育委員会 1990『藤崎遺跡V―第12・13・14次調査―』福岡市埋蔵文化財調査報告書第232集,PL.28
図2 図1と同,p.59 fig.50-92
- 香椎宮を参拝した小野老
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梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず 我が家の園に ありこせぬかも (『万葉集』巻5 816)
この歌は、大宰帥(大宰府の長官)を務めていた大伴旅人の邸宅で開かれた宴での一首です。天平2(730)年に開催され「梅花の宴」と呼ばれるこの宴には、大宰府官人だけでなく九州各国の国司も参加し、この時詠まれた歌は『万葉集』巻5に残されました。ここにあげた歌の作者は「少弐小野大夫」と記されており、当時大宰少弐を務めていた小野老(おののおゆ)の歌であった事が知られます。彼は次の有名な歌を残した人物です。
あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり (巻5 328番)
和銅3(710)年に遷都したばかりの平城京と、遠く離れた九州の景色をどのような思いで見比べたのでしょうか。老が文献にはじめて登場するのは養老3(719)年1月です(続日本紀)。この年、正6位下から従5位下に叙せられ、貴族の仲間入りを果たすと、右少弁(政府の事務官)に任命されました。大宰少弐として九州に下ってきたのは、遅くとも神亀5(728)年頃までと考えられています。その後に位階は従4位下まで上り、当時としては珍しく大宰少弐から大宰大弐に昇進しました(大宰府の次官は大弐・少弐に分かれていた)。老は任中、大伴旅人らとともに香椎宮を参拝しています。『万葉集』巻6には次の3首が見えます。
冬十一月、大宰官人等、香椎廟を拝し奉り、訖わりて退き帰る時に、馬を香椎浦に駐め、おのおの懐を述べて作る歌
帥大伴卿の歌一首
いざ子ども 香椎の潟に 白たへの 袖さへ濡れて 朝菜摘みてむ (巻6 957番)
大弐小野老朝臣の歌一首
時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな (巻6 958番)
豊前守宇努首男人の歌一首
行き帰り 常に我が見し 香椎潟 明日ゆ後には 見むよしもなし (巻6 959番)
前後関係からこの参拝は神亀5年の事であったとされ、老の九州赴任がこの頃までと言われるのはそのためです。同時にこの歌は香椎宮(廟)の確実な初見史料ともされています。近代の地形図を参考にすると、香椎宮辺りの海岸線は現在よりもずっと内陸にあり、古代では同宮付近からすぐに干潟が見渡せたと考えられます。
中央から赴任した官人が香椎宮を参詣した事は、ほかの史料にも散見されます。例えば『源道済集』には次のような歌が収められています。
筑前国にて、香椎宮の祭の、梅花をさして詠める。国の例にて、春は梅、冬は杉をさして、前々の守も必ず詠める。
年ごとに 匂ひまされる 梅の花 同じ色にて 杉をかざさむ
色変へぬ 常磐の杉は わが国の 長けき宮の しるしなりけり
源道済(みなもとのみちなり)が筑前守に任命されたのは長和4(1015)年2月、任地で没したのが寛仁3(1019)年ですから、その間の作という事になります。当時、筑前守(筑前国の長官)が香椎宮の春・冬の祭に参列し、春は梅を、冬は杉を、それぞれ冠に挿して歌を詠んでいた事が知られます。現在、香椎宮の境内には綾杉が立ち大変有名ですが、同宮と杉との関わりは、古くより官人たちにも認識されていたようです。老らの香椎宮参拝が11月の冬であった事は、この祭との関係があるのかもしれません。
天平9年、老も道済と同じように任地で没しています。その遺骨は対馬島史生を務めていた白氏子虫の手によって京に運ばれたようで、子虫が老の骨送使として周防国を通過した事が正倉院文書に見えます(天平10年度周防国正税帳)。
老の死後の天平勝宝6(754)年、大宰府は南西諸島に立てていた島名・泊の場所・水のある場所・各国への行程などを記した立て札の修復を行いました。その記事によると、この立て札は老が高橋牛養という人物を派遣し、天平7年に立てたもののようです(続日本紀)。大宰府史跡では「奄美島」「伊藍島」などの南島の地名を記した荷札状の木簡が出土しており、大宰府の影響力は南西諸島にまで及んでいました。最近の鹿児島県喜界島の発掘調査でも、このような大宰府の影響が確かめられるようになってきています。立て札の背景には大宰府の影響力を可視的に示す意図も推測されますが、記事にも見えるように、本来の役割である漂着した船への案内板として役に立った事も多かったと思われます。
漂着船に配慮した政策を行った老でしたが、宝亀9(777)年11月、その息子小野石根が遣唐使として唐から帰国する際に、水没して帰国を果たせなかった事は、大変残念な出来事です。
画像左:『筑前名所図絵』香椎宮大廟之図 其一(福岡市博物館蔵)
画像右:『筑前名所図絵』香椎宮大廟之図 其二(福岡市博物館蔵)
【参考文献】
桑原博史『私家集全釈叢書2 源道済集全釈』(風間書房、1987年)
新編日本古典文学全集『万葉集』2(小学館、1995年)
『日本歴史地名大系 福岡県』(平凡社、2004年)
- 福岡藩の成立と黒田24騎・母里太兵衛(もり たへえ)
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福岡藩は、慶長5(1600)年に、黒田長政が、関ヶ原の合戦で東軍徳川家康に味方し、しかも家康を勝利に導く働きをしたため、筑前国内に領地を与えられたことに始まります。
黒田家は戦国時代から播州姫路(現兵庫県姫路市)の小寺氏の家臣でしたが、黒田孝高(くろだ よしたか)(如水)が織田信長の天下統一事業のなかで、中国地方へ侵攻する羽柴秀吉の配下について活躍し、秀吉が天下統一を果たす際にも重要な役割を果たしたため、豊前中津(現大分県中津市)18万石を与えられました。その子長政は、文禄慶長の役をへて、さいごは徳川家康に近づき筑前50万石の大名となりました。全国的には、江戸時代初期には50万石以上の外様大名も少なくないのですが、本来の戦国大名の流れも多く、黒田家のように中国地方の片隅の小さな領主から豊臣氏の大名、最後は徳川幕府の中で、大外様大名にまで成長した、という波乱に富んだ出自、経歴の外様の大名は、加賀百万石の前田家が見られるぐらいです。
初期の黒田家の成立事情を、家臣の面から良く物語る象徴的なものとして、江戸時代の中頃、初期に活躍した家臣から代表的な24人を選んで、その武功を伝える「黒田24騎」があります。そのうち、現在も福岡の黒田武士の代表的な人物の一人として、上げられるのが、母里太兵衛友信(もりたへえとものぶ)で、彼は長政の同僚の大名福島正則(ふくしま まさのり)から名槍「日本号」を呑取った、豪快な人物として有名ですが、関ヶ原合戦の際は、石田三成のために大坂で人質となりかけた、如水の妻と長政の妻を、船荷に隠す機知を働かせて救出するなど、この時代らしい生き方も身につけていました。
また本来彼は、黒田家の中では、同じく24騎の中に選ばれている栗山利安(くりやま としやす)、井上之房(いのうえ ゆきふさ)、についで、如水時代からの三番目の家老で、黒田家の軍団の中の一軍団を率いる身であり、長政時代は江戸城の築城などに活躍するなど、藩の代表として活躍しました。その際、将軍秀忠に母里でなく毛利と呼ばれ、大身の家老にふさわしい毛利但馬と名乗ることとなりました。このような太兵衛は多くの逸話が伝えられ、現在も黒田武士の代表として、博多人形のモデルや博多駅前の銅像となり、福岡の中で生きているのです。
画像上:黒田長政が若い頃に着用した「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」
(くろうるしぬりももなりだいすいぎゅうわきだてかぶと/福岡市博物館蔵)
画像下:母里太兵衛友信(「黒田二十四騎図」福岡市博物館蔵)
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