-
初出:『市史だより Fukuoka』第10号(2009年12月15日発行)
-
前回、昭和25(1950)年10月に「福岡市史編纂に対する構想」が策定されたことを報告しました。これが最終的には現在の『福岡市史』全19巻となるのです。今回からはその事情を取り上げる予定でしたが、同じ年に、市史にとっても何かしら関連があると考えられる事績があります。今回はこのことを報告します。
昭和25年3月10日付けで『福岡』が出版されました。B5判のサイズ、ほぼ400ページの厚さで、少し厚手の紙表紙装、内容は自然、歴史、政治、経済、民生、文化、観光の各編から構成されています。執筆陣は大学・高等学校の教官、市および商工会議所などの役職者、マスコミ、作家、文化人等からなり、今日から見てもそうそうたる陣容を整えていたと考えられます。発行所は福岡市役所図書室に置かれた『福岡』刊行会で、発行人は『福岡』刊行会長の三好弥六(みよしやろく)福岡市長、印刷所は福岡市役所共済組合印刷部となっています。お分かりのように、この出版物は福岡市が編さん・出版したものなのです。
出版趣旨は正確には記されてはいませんが、序文によれば「最近十五ヶ年に於ける日本歴史の歩みは明治大正年間の五十年、旧幕時代の三百年にも匹敵する大変動であった。ことに終戦以来の最近五ヶ年間の諸変革は日本歴史にとっては未曾有の激しさと深さをもったもので、この変革は現に尚しんしんとして動きつつある」と分析し、福岡の過去とそれに続く将来への意志ないし動向を見据えようとしたものです。歴史的変遷を中心に据えるのではなく、ここ数年来の経緯を概観しようとすることに視点があり、よくまとまった刊行物といえましょう。
さらに特異な点は協賛企業などのページがあることです。市の刊行物に時折見かけることはありましたが、今回は巻末に23ページにわたってスポンサーの広告があります。中間にも随所に印刷されていますが、あまり違和感はありません。モノクロ印刷時代の賜物かと考えられるし、表現に広告主も配慮したのかもしれません。出版に関する費用のことが編集後記にありますので、このことはそれが関係しているのかもしれません。刊行に関して一考できることかもしれません。
じつは昭和24年は市制施行60年に当たります。この年は特には記念事業が見当たりません。本書は春に計画が始まり、秋には出版の予定でありました。それが1年間ずれ込んだ結果となっていますが、本文中には市制60年目を意識した記述を見る事ができますので、多分に周年記念出版が意図されていたものと考えられます。したがって、この事業の中から「福岡市史編纂に対する構想」が策定されていったと考えて良いでしょう。
-
初出:『市史だより Fukuoka』第11号(2010年9月1日発行)
-
これまで福岡市史編さん事業の足跡をたどってきました。そこで、福岡市には自治体史がないといってきましたが、少なくとも歴代市長をはじめ幹部の中には、福岡の他都市には類例のない歴史に着目し、市史編さん担当の職員を配置して、独自の自治体史を編さんすることの必要性を感じていた人がいたことは理解できました。そしてそれは自治体の周年記念のたびに思い出され、予算化されて何らかの形にまとめられていたこともわかりました。もちろん福岡市の特異な歴史から見ると、編さん事業の予算額や人員などの規模の問題があり、作成された印刷物の内容も検討しなければならないでしょうが、少なくとも従来いわれてきたように、福岡市が自治体史編さんにまったく興味がなかったわけではないことは、理解していただけるのではないかと思っています。しかし、そのような福岡市の体質の中から、現行の「福岡市史」全19巻が、どのようにして刊行されるようになったのか、そのことをこれから見ていきたいと思います。
福岡市制施行50年史を編さんした永島芳郎は昭和23年に亡くなり、急遽委嘱した次の伊東尾四郎(いとうおしろう)も昭和24年8月に急逝します。その跡を引き継いだのが小野有耶介(おのうやすけ)でした。彼の前歴などはよくわかっていませんが、前任の2人の後を任されるからには、相当の経験があったのではないかと考えられます。昭和25年3月に嘱託に任じられ、3ヶ月後の6月には事務吏員に採用されています。
小野には期するところがあったようで、その仕事ぶりには、従来の編さん体制には見られない点がいくつかあります。まずは「福岡市史編纂に対する構想」の作成です。内容は第8回に詳しく記したので、そちらを参照していただければ幸いです。市史の具体的な冊数には触れていませんが、原始から現代までを対象とし、市制以後に重点をおいた、内容的にも多岐に渡る大部の自治体史を構想していたようです。そのため年次ごとの編さん事業計画を策定して、具体的なイメージ作りを意図したようです。さらには市政全般の中に編さん事業を位置づけようとして、同年11月30日に「福岡市市史編さん委員会規程」を条文化しました。これによって市史編さん事業は、正式に市の行政の中に位置づけされたといっても過言ではないでしょう。
上記の「編さん委員会」は助役を委員長とし、委員には収入役、総務局、税務局、建築局、教育委員会などの責任者があてられて、市役所横断的な組織を目指していたものです。とりわけ一般学識経験者からの顧問就任が考えられており、考古学の中山平次郎(なかやまへいじろう)、森貞次郎(もりていじろう)、国史学の森克己(もりかつみ)、干潟龍祥(ひがたりゅうしょう)、経済史学の宮本又次(みやもとまたじ)、美学の竹岡勝也(たけおかかつや)、福岡県立図書館長の菊池貢(きくちみつぐ)、九大付属図書館長古野清人(ふるのきよと)の名前があげられ、今日から考えても第一級の豪華な顔ぶれという事ができます。しかし委員には学識経験者は起用されてはおらず、吏員中心で編さんする自治体史の方向性がこの時点で決まっていたのです。
今回は第8回の分と重なったところが多いので、時系列的に読み合わせていただく事をお願いします。
-
初出:『市史だより Fukuoka』第12号(2010年12月31日発行)
-
平成22(2010)年8月31日、吉田宏前福岡市長は定例記者会見のなかで『新修 福岡市史』として、「資料編 中世1 市内所在文書」と「特別編 福の民 ―暮らしのなかに技がある―」の2巻を発刊したと発表しました。市長記者会見は毎週行われる性格のものですが、「市史」のような地味なものはあまり馴染みのないもので、一瞬場違いのような気もしましたが、しかし本来的に考えれば、現在の福岡市がよってたった過去の足跡をたどったものであり、記述内容は当然全市的にわたっているので、市を代表する首長が先頭きって発表することはまことに妥当なことだったと思っています。
『新修 福岡市史』は、福岡市制70周年を記念して昭和36(1961)年から編纂(へんさん)が始められた、『福岡市史』(以下「旧市史」と称す)の後を引き継ぐもので、「旧市史」がその編纂時代範囲を、明治初年から昭和の末年までを対象とした行政史であることに対して、原始古代から、近現代までの福岡の歴史展開を、政治・経済・文化など多岐にわたって理解するために、全時代を対象として編纂するものです。したがって一定の準備期間ののち、平成16年に市史編さん室を発足させ、編纂体制を整備させながら、編集委員による調査研究の後、今回の第1回配本にこぎつけたというのが現状です。特に今回の配本が「資料編 中世1 市内所在文書」であったことは、福岡市の歴史を考えるとき、とりわけ意味のあることのように思われます。それは、中世の博多は全国的な対外交流の拠点であったことは定説化されながら、それを証明する史資料を一堂に集めたものは作られていなかったことによるものです。何回か編纂された福岡県の自治体史でも中世資料の扱いは一部に限られ、今一歩の感がありました。その意味でも福岡市史編さんの第一歩が、中世資料編で始まったのには大きな意義があると考えます。
しかし6年間の準備期間は相当永く感じられました。この間の社会状況の変化に対応しつつの編纂事業は、過去ほかの自治体史にも前例があるだけに大変気がかりなことでありました。編纂に携わっていただいている、研究者の方々のご労苦は多としながらも、編さん室の心配ごとは常に存在していたのです。このように第1回目の配本が済んでみると、今後の課題は、これからの長年月の編纂計画を維持していくに足る予算の確保が考えられます。
このシリーズで報告してきたように、福岡市政の市史に対する思いは大正期に始まっています。歴代編纂主任の交代は多かったし、さらに社会状況の急激な変動もあって、雌伏の状況を余儀なくされた期間が永かったように思えます。直近の「旧市史」にしても編纂体制はありましたが、なかなか前進はしていませんでした。これが動き出したのは、市制70周年が目前になってからのことでした。
記録によると、昭和31年5月に発刊の方針が決定し、刊行されたのは同34年3月でした。資料収集、原稿作成、校正、印刷、製本などの工程を普通に考えると誠に驚異的としか思えない状況です。
次回で「旧市史」出版の経緯を見ていきましょう。
-
初出:『市史だより Fukuoka』第13号(2011年8月31日発行)
-
ここ2回ほど新しく発見した資料の紹介や、待望久しかった『新修 福岡市史』の第1回配本について報告しました。『新修 福岡市史』がこれから順調に発刊していくためには、まずは編さんに当たる研究者の方々のご尽力が何より重要と考えます。そして次には長期計画でこの事業を進めるのですから、編さん体制を万全なものにする福岡市の姿勢が必要なこととなります。
自治体史編さんは決して一自治体の都合によるものではありませんでした。市制50周年を記念して刊行された『福岡市市制施行五十年史』の場合は、昭和13(1938)年という戦時体制突入の時期に当たり、わずか5ヵ月で脱稿したということもあり、短期間で製作したことは驚くばかりですし、これから話題とする昭和34年から発刊を始めた『福岡市史』の場合は、その開始時期と考えられる昭和25年頃の社会状況を考えると、第2次世界大戦の影響から立ち直りつつも、朝鮮戦争が勃発したときに当たります。福岡市は地理的に朝鮮半島に近く、落ち着かない世情であったろうと考えられますが、昭和26年段階では編さん事業は「予算の捻出が出来ない、時期尚早」という理由で活動は止められています。
この卑近な事例だけでも編さん事業は社会状況に微妙に影響されてきたことをご理解いただけるものと思います。今後20余年の間、編さん事業に支障をきたすような状況にならないよう祈るばかりです。
話を昭和25年、小野有耶介(おのうやすけ)が編さん担当を命ぜられた時点に戻しましょう。小野は従来の経緯を充分に把握し、計画的かつ円滑な事業推進体制を考えていたようです。動きを年表風に整理してみましょう。
<昭和25年3月>
小野、嘱託となる。さらに6月には事務吏員となる。
<同年10月>
市史編さんに対する構想をタイプ浄書。執筆基準・総説等を作成。
<同年11月>
編さん委員会委員を決定(委員長は助役、委員は市幹部10名程)。編さん委員会顧問を決定(庁外学識者9名ほか2名)。「庁達第23号」で「福岡市市史編さん委員会規程」が決まる。
<昭和26年7月>
市史編さん委員会開催するも、流会、無期延期。理由は「予算捻出不可能、時期尚早」。
<昭和27年6月>
小野、市長宛に「市史編さんに関する上申書」を作成。
これ以後の数年間は日記の類は何も見当たりません。「福岡市勢要覧」の人口動向と財政の決算額の推移を見てみますと、人口は昭和20年から毎年2~3万人ずつ順調に伸びていきますが、財政の方は幅はあるものの28年からは赤字に転落している様子がうかがえます。市の幹部が「時期尚早」とした理由はこのあたりにあったのかもしれません。
劇的に変化するのは昭和31年になってからです。いよいよ編さん事業が始まります。
-
初出:『市史だより Fukuoka』第14号(2011年12月26日発行)
-
旧版「福岡市史」の編纂(へんさん)始まる
4代目の市史編纂を委嘱された小野有耶介(おのうやすけ)は、就任早々編纂の構想を発表し、積極的な活動を始めます。直後には編纂委員会委員を決定し、助役を委員長に、委員は市の幹部10名ほどが組み込まれ、さらに学識経験者9名を含む委員会顧問を任命しました。そして約半年後の昭和26(1951)年7月、福岡市史編纂委員会を開催するところまでこぎつけますが、「予算捻出不可能」という理由で、無期延期を告げられます。そこで小野は編纂委員長宛に「市史編纂に関する上申書」を提出しました。これが先回までにお話しした大まかな経過です。
市史編纂の記録はここでストップしています。実際には作成されていたのでしょうが、残念ながらその所在が不明で、まだ見ることができません。そのような編纂事業が劇的に動き出すのは昭和31年になってからです。
昭和31年6月6日、新たに編纂委員会が招集されました。委員長は助役で、委員は収入役・総務部長・税務部長・議会事務局長・教育長・教育研究所長ら市の幹部9名で構成されています。先回と異なるのは、学識経験者が一人も任用されていないことです。何がきっかけとなったかは不明ですが、5年間の雌伏(しふく)期間をおいて、突然動き始めたのです。この会議の模様は手書きの議事録風な要約でうかがい知ることができますが、大変興味深いものです。箇条書きにまとめると次の通りです。
(1)市制70周年を機に何らかのものを出版する。
(2)書名は「福岡市史」とし、内容は行政史ではなくて市政を基本にした社会史で、時期は明治以降、記述の範囲は本市に必要なだけにする。
(3)委員会の開催は、月1回の定例会とする。
(4)資料収集委員及び庶務的仕事をする職員をおく必要がある。
(5)書き始めたら、干渉はしない。
というもので、ここに福岡市史の大概が決定されたことになりました。
福岡市史の刊行が終わった今日から考えると、このときの決定事項は重大な意味を持ったことに気づかされます。順に見ていきましょう。(1)の「何らかのものを出版する」という決議は何よりの重みを持っています。福岡市のナンバー2である助役が委員長であり、主要な局長・教育長・部長らからなる強力な意思決定機関のことですから、実現性は何よりも大きいと考えられます。周年記念事業であろうとなんであろうと、出版できるということが何よりのことなのです。出版目的が単純明解に示された点にこそ、事業の実現性を強く認識したのだと思います。(2)の「市政を基本にした社会史」、「時期は明治以降」とされたことは、福岡市史の編集方針を確固たるものにしました。小野の編集方針はあくまでも原始から今日までの全史的なものを構想していたのですが、会議の中では、それにこだわる小野に対し、まず明治編を出版してからということだったのです。会議の雰囲気は多分過去の周年事業のように単発の刊行物で記念事業とすることだったように読み取れますが、小野はこの会議の決定事項を最大限膨らませて市史の編纂に取り組んでゆくのです。
これ以後の数年間は日記の類は何も見当たりません。「福岡市勢要覧」の人口動向と財政の決算額の推移を見てみますと、人口は昭和20年から毎年2~3万人ずつ順調に伸びていきますが、財政の方は幅はあるものの28年からは赤字に転落している様子がうかがえます。市の幹部が「時期尚早」とした理由はこのあたりにあったのかもしれません。
劇的に変化するのは昭和31年になってからです。いよいよ編さん事業が始まります。
-
初出:『市史だより Fukuoka』第15号(2012年8月20日発行)
-
先回は旧「福岡市史」の編さんの始動について述べました。昭和31(1956)年6月6日の編さん委員会では、様々なことが決められましたが、最も重要なことは、市制70周年記念事業として、何らかのものを出版するという行政側の強い意志が打ち出されたことです。このことは今回の『新修 福岡市史』編さんへとつながることでもあり、重要な事柄といえます。これで福岡市史の編さんが正式に動き出したのです。
この計画で出版された『福岡市史 第1巻 明治編』を見ると、いくつかの点でこの出版はそれ自体が大変な事業だったと改めて思えます。
特徴的なことを挙げますと、その第1点は外観です。「福岡市史」の中でも最厚の9.5cmで、本文に年表を加えて1,612ページに及び、重量は6.2kg、片手でやっと持ち上げられる実に存在感のあるものとなっています。
第2点は内容ですが、とりわけ特徴的な事は、この1冊に時代的には明治初年から末年までを、地域的には旧市域内で、近隣町村合併前の状況が収録されていることです。勿論例外はあります。章立てでは行政、港湾、建設、産業、社会、厚生、文教、消防の各編からなっており、上水道敷設、町村合併、博多港の築造などは大正編に譲った編集となっています。当前ながら記述の面では各事項で濃淡がありますが、これは資料が大戦の空襲などで損なわれているためだとされています。
第3点はその編集期間です。先回に述べたように、編さん委員会議が開催されたのは、昭和31年6月です。ここで出版の大綱が示され、作業が始まったのですが、出版は34年の市制施行70周年次となっており、途中で出版期日の延期を話題にしたことがありましたが、幹部委員から軽く一蹴されています。編さん事業自体この時期にあわせることが大命題だったのですから。そうすると年数を考えると3年間ばかりとなります。編さん担当の小野有耶介(おのうやすけ)はわずか3年で明治年間(1868~1912)を通じた市史編さんが命じられたことになったのです。昭和30年代と今日の出版事情を考えてみてください。この短い編集期間は今日の出版状況と考え合わせるととても大きな問題を抱えていました。当時は手書き原稿から一字一字活字を拾い、活版を作ってから印刷機にかける手間が要りました。今日のように、各執筆者がパソコンで原稿を活字化して印刷所に渡す方式ではありません。勿論デザインとか組版上の手間は今も昔も変わらないでしょうが、他人に正確に活字化してもらうために、きちんと原稿用紙に向かわねばならなかったことはもう過去のこととなっています。さらに原稿締め切り期限や初校の簡便さなどもあります。我々はいかに利便性の高い時代にいることか、先人の苦労をつくづく思い知らされます。
次に編さん体制と資料の件がありますが、紙数が尽きたようです。次回に報告します。
-
初出:『市史だより Fukuoka』第16号(2013年1月20日発行)
-
前回は旧「福岡市史」の第1巻の発行に関して特徴的な点を取り上げました。1600頁余に及ぶ大部の出来を第1点とし、第2点は明治期全体を対象として内容は行政全般にわたっていること、第3点は編さん作業時間がわずか3年間という短期間であったことを報告しました。今回はその続きです。
第4点には編さん体制の問題があります。編さん委員に任じられたのは行政の管理職、それも助役以下局長、次長といった幹部職員であり、多忙な彼らが実際に資料集めや執筆などの業務にあたったとは考えられません。ゴーサインが出たからといって特に増員された様子はなく、業務日誌などからみると、当時の編さん室は小野主任以外に事務員1名、臨時的任用職員3名という体制だったようです。ただし、発行の年、第1稿の校正には大学生が10名程度動員されているという資料が残っていますから、臨時的に採用された人はいたかもしれませんが、体系的な資料が出てこない限り、現時点では原稿執筆はほとんど小野一人だったと考えるほうが正確かもしれません。
最後に資料についてです。「福岡市史」が明治以降を対象とすることになった大きな理由は、古くから計画されている割には資(史)料が残っていないか、または集められていないからだといわれてきました。特に大戦の空襲被害はよく強調されてきました。しかし明治編と一言にいっても45年間ありますし、部分的には江戸時代のことも記されています。そしてその資料が行政側で揃えられないとしたら、新聞記事に頼らなければならないのは必然のことでしょう。ある新聞社には資料収集や写真の転載に及ぶ形で協力依頼の公文書が出されている様子です。
この明治期の新聞を1枚1枚めくり市政の記事を探したのは誰なのでしょうか。古い新聞をめくり記事を探すという経験がある人は多いでしょう。かく申す私もその一人です。そして目的以外の記事に目を奪われ、時間をロスした思い出もあるのではないでしょうか。短期間で大量の新聞に目を通すことは一人ではあまりにも非能率と考えるのは現代人だけでしょうか。目当ての記事を見つけても、今日のように簡便に使える複写機があるわけではないのです。すべて手書きによる複写だったはずです。新聞からの資料収集の方策があったとしても、それは大変な労力だったと考える以外ありません。しかしながら収集対象ゃ資料収集システムといった実務に関することをうかがい知れる資料はまだ見つかっていません。「福岡市史」の内容の如何を問う前にこの事実に対しただけで驚きの連続です。
ともあれ『福岡市史 第一巻 明治編』は発行されるのですが、巻末には昭和34年3月31日付の奥付があります。以上述べてきた驚異的な状況の中で、この編さん事業は一つの成果を生み出したのですが、続いて2年後の36年3月30日には明治編資料集を発行しています。ただ脱帽するのみです。
-
初出:『市史だより Fukuoka』第17号(2013年8月30日発行)
-
これまで、大正期に発案された「福岡市史」編さん事業の足跡を辿(たど)ってきました。「福岡市史」は市制施行の周年記念事業の一環としてその都度刊行が企画されてきたのですが、刊行されたのは『福岡市市制施行五十年史』(1939年)1冊だけでした。
ところが、昭和31(1956)年に始まった市制70周年記念事業としての「福岡市史」刊行事業は、戦後の社会の安定と文化・文化財への関心の高まりとがあいまって好ましい方向が示されました。対象とする時代は、明治22(1889)年の市制施行以降、通史編に資料編を合わせると19巻という構成でした。編さん事業は昭和33年度から平成9(1997)年度まで、約40年に及びました。2年で1巻という計算になりますが、市職員を中心とした編さん体制のなかでは十分に努力してきたといえるでしょう。
昭和40年代になると都市生活基盤の整備も進みました。生活に余裕が出てくると、人びとの目が文化に向いてくるのは、一般的な傾向です。全国的に文化財が注目され始めたこの時期に、福岡市が全国でも珍しい遺跡として保護にあたっていたのが、史跡元寇防塁(げんこうぼうるい)です。昭和42年6月には元寇防塁保存整備懇談会が設置されました。元寇防塁は、一部は大正期に発掘作業が行われていましたが、昭和43年からの発掘では、建築学、土木工学、地質学なども含んだ大規模調査が実施されました。また、文献史学上からの調査も行われ、昭和42年10月には防塁に関する直接資料だけをまとめた『史跡元寇防塁関係編年史料』が編まれました。その後も蒙古襲来に関する史料の収集作業は続けられ、昭和46年3月に、その成果として『注解元寇防塁編年史料―異国警固番役史料の研究―』が福岡市教育委員会から刊行されました。編者は蒙古襲来研究者としてつとに著名であった九州大学助教授(肩書きは当時)川添昭二氏でした。自治体が歴史事象の関連史料集を出版するのは稀有なことであり、行政がこのような基礎的な事業を行ったとして、学界で評判になったことを筆者は記憶しています。考古学だけでなく、調査対象に応じた諸学問を集めて成果を目指すようになったのは大変意義深いことでありました。文化財重視の姿勢は次第に固まっていき、昭和48年には「福岡市文化財保護条例」も制定されました。翌49年には元寇(文永の役)から700年目にあたるため、広く市民に郷土の歴史を知ってもらうために、福岡市教育委員会は記念事業として、有名な竹崎季長(たけさきすえなが)の『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』の複製出版(1975年)を行っています。
文化財の保存活用を図るため、この元寇防塁調査のように、さまざまな学問的な調査研究の必要性が次第に行政のなかにも広がっていきつつありました。しかしながら、福岡市の歴史を知るためにもっとも基本的な「福岡市史」編さん事業そのものは、従来どおりの陣容と方法論で行われており、どの時点で一段落させるのかもよくわからない状況が続いていたのです。
-