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LastUpDate: September 8, 2016
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博多小知识 115

博多商人――自治城市的栋梁 

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自古以来,博多与海外的交流非常盛行,到了中世纪,博多作为商业港口而繁荣发展。最初始于勘合贸易,仅持有“勘合符”即可与中国明朝进行交易,后来与朝鲜进行交易,而且通过琉球,将贸易范围扩大到东南亚。在此情况下,出现了力量强大的商人。博多以商人为主,作为自治城市而发展起来。特别有名的是被称为“博多三杰”的神屋宗湛、岛井宗室、大贺宗九三位人士。


神屋宗湛生于博多的世代巨商之家,在丰臣秀吉的“太閤町割”(城市规划)中也发挥了重要作用。据说他亲自携带尺子,四处奔走,进行街道测量。后来,他从事与中国之间的贸易以及稻米交易等,作为博多商人的泰斗而大显身手。在博多区奈良屋町有神屋宗湛的邸宅遗迹,现在,在此修建了祭奠丰臣秀吉的丰国神社。此外,神屋宗湛的坟墓被安置在博多区的妙乐寺。


岛井宗室获得了大友宗麟和丰臣秀吉等人的信赖,通过造酒和金融业创造了财富。据说他与朝鲜进行贸易,建立了从博多到对马、朝鲜的贸易途径。在岛井宗室的邸宅遗址有一道土墙,使用了被称为“博多壁”的瓦建成,非常独特。在第2次世界大战的空袭中也没有被烧毁,后来被移建到附近的栉田神社院内保存下来。他的坟墓被安置在崇福寺。


大贺宗九和出生于博多的宗湛、宗室不同,他原来生于丰前国中津。中津藩主黑田长政迁移到筑前国时,大贺宗九也随之移居到博多。他为修建福冈城、整修城下町以及博多寺院的复兴等而尽力,并且与东南亚进行贸易,深受黑田藩的信赖。大贺家族作为博多商人大显身手一直持续到幕府末期。他的坟墓位于圣福寺的“塔头”幻住庵。


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自治都市を支えた博多の商人

 古代から海外との交流が盛んだった博多は、中世になると商業港として栄えるようになります。勘合符を持つものだけが交易できる中国・明との勘合貿易に始まり、朝鮮との交易、さらには琉球を通じて東南アジアにまで貿易圏を広げていきます。その中で大きな力を持つ商人が生まれ、博多は商人を中心とした自治都市として発展しました。とりわけ有名なのが「博多三傑」と呼ばれる神屋宗湛・島井宗室・大賀宗九の3人です。

 神屋宗湛は代々博多の豪商の家に生まれました。豊臣秀吉の「太閤町割」でも重要な役割を果たし、自ら物差しを持って通りを計測して回ったとされます。その後は中国との貿易や米の取引などで博多商人の第一人者として活躍しました。博多区奈良屋町の神屋宗湛の屋敷跡は、現在、豊臣秀吉を祀る豊国神社が建立されています。また墓所は博多区の妙楽寺にあります。

 島井宗室は大友宗麟や豊臣秀吉などからの信頼を得て、酒づくりや金融業で財を成しました。朝鮮とも貿易を行い、博多から対馬、朝鮮にいたる交通路を築き上げたとされます。島井宗室の屋敷跡にあった土塀は「博多べい」と呼ばれる瓦を使った独特の造りで、第2次世界大戦中の空襲でも焼け残り、近くの櫛田神社境内に移築・保存されています。墓所は崇福寺にあります。

 大賀宗九は博多出身の宗湛・宗室とは違い、もともと豊前国中津の生まれです。中津藩主の黒田長政が筑前国に移るのにあわせて博多に移住しました。福岡城の築城や城下町の整備、博多の寺院の復興などに尽力し、東南アジアとの交易も行いました。黒田藩からの信頼も厚く、大賀家は博多商人として幕末まで続くことになります。墓所は聖福寺の塔頭・幻住庵にあります。