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志賀の白水郎(はくすいろう)「荒雄」物語

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奈良時代前期の神亀(じんき)(724~729年)の頃、九州を統括していた大宰府は、対馬に食料を送るため、宗像郡(むなかたこおり)の白水郎(漁師)である津麻呂(つまろ)に、船の舵(かじ)とりを命じました。

志賀島の地図。休暇村近くにある万葉歌碑を示している。

しかし、津麻呂はすでに年老いて、対馬まで荒波を渡って行くだけの自信がありませんでした。
思い悩んだ津麻呂は、志賀の白水郎である荒雄に相談しました。
話を聞いた荒雄は「住むところは異にするも、長年同じ海で暮らす者同士、何でこの頼みを断れようか」と快く代役を引き受けました。


荒雄は、対馬に向かうため肥前松浦美彌良久(みねらく)(現在の五島福江島三井楽)の崎を出発しましたが、船出して間もなく暴風雨が彼を襲いました。
必死で船を操る荒雄でしたが、力尽き帰らぬ人となってしまいました。


志賀島の国民休暇村駐車場横にある万葉歌碑には、「大船に小舟 引きそへかづくとも 志賀の荒雄にかづきあはめやも」と刻まれています。

志賀島の国民休暇村駐車場横にある万葉歌碑の写真

詠み人は大宰府長官の山上憶良(やまのうえのおくら)で、「大船に小船を加えて多くの人々が海に潜ったとしても、志賀の荒雄に会えるだろうか、いや、会えはしない」という意味です。


荒雄を失った妻子をはじめ、残された人々の心の葛藤や悲しみを今に伝えています。


「歩・歩・歩(さんぽ)・会」
古賀 偉郎(79)

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