江戸時代の後期、和白村大字奈多の内海岸に、福岡藩に納める御用米の集積所がありました。
当時「裏糟屋」といわれた、現在の新宮町や古賀福岡市、宗像福岡市南部の農民たちは、米俵を馬の背に3俵、牛の背に2俵を積み、ここまで運び込んだといわれています。
元禄時代に築かれた、和白から雁の巣に至る「堤防」の西端に連なるこの海岸には、大きなわらぶきの倉庫がいくつも並び、駐在の侍が米俵の検査や倉庫の管理をしていました。
ここから舟1隻に38俵を積み、荒津(現在の中央区)にあった福岡藩の米蔵に運んだそうです。
このような経緯から、「宝塚」という小字の地名が付けられました。
まさに、米俵という宝が塚のように山積みされていたことでしょう。
明治時代には、博多湾鉄道(現JR香椎線)の沿線の松林一帯が高級別荘地として売り出され、大正時代には、海水浴客で大いににぎわったそうです。
現在、その地名はなくなり、雁の巣となっています。
「歩(さ)・歩(ん)・歩(ぽ)・会」
酒井 孝司(81)