この連載では、かつて構想された、さまざまな都市計画などを紹介していきます。
平成元(1989)年3月17日~9月3日、アジア太平洋博覧会(よかトピア)が、埋め立てられたばかりのシーサイドももちで開かれました。
でも、よく見るとシンボルであるはずの福岡タワーがありません。この図は、博覧会を開くに当たって昭和60(1985)年10月に策定された基本構想に基づく「構想図」なのです。まだタワーの建設も、よかトピアという愛称も決まっていないころ、博覧会の景色が空想でしかなかった時のものでした。
博覧会の事務局員はこの構想図を携え、企業や団体へ、パビリオンの出展依頼に走り回りました。パビリオンが具体化していくと、会場の様子は構想図とは変わっていきましたが、東西に長いビーチを備えて、博多湾を会場に取り込むことや、アジアの木々を植え、自然を再現するという最も大きな特徴は、最後まで変更されることはありませんでした。
時は、博覧会ブーム。日本全国のさまざまなまちで、それぞれに工夫を凝らした博覧会が開催されました。でも、海や自然を生かして会場を造り、アジア太平洋地域との関わりを表現した博覧会は、よかトピアだけです。
当時から異彩を放ち、注目されたこの構想には、「国際海浜都市として、国内外の人々や物がたくさん出会うまちになる」という、福岡市の未来像が込められていました。
いざ開会すると、171日間で約823万人もの人々がこの会場を訪れました。多くの人々が、ここで福岡市の未来を体感したのです。
その後も福岡市では、1995年にユニバーシアード、2001年には世界水泳選手権大会といったスポーツの世界大会が相次いで開かれました。昨年の統計によれば、コロナ禍以前のピーク時(2018年)には年間約309万人もの外国人が訪れるまちになり、国際会議の開催数では国内ベスト5の常連になっています。
よかトピアの時にはまだ空想でしかなかった国際海浜都市・福岡は、その後、現実のものとなっていったのです。
(市博物館市史編さん室 原田 諭)