横手3丁目の元湯の入り口に3体のお地蔵さんが安置されている。
この地蔵は享保の大飢饉で餓死した人々を追悼するために刻まれ那珂川の河畔に祀られた地蔵尊である。
昭和45年河川公園建設の際、奥博多温泉の敷地に移され、その後奥博多温泉が横手中学に売却された際に
3体を元湯に、残りの23体が篠栗へ移された。
享保の飢饉とは、享保17年(1732年)この年は、前年の12月から雨が多く、
閏5月は毎日のように雨が降り続き、6月にはウンカが発生、稲が腐り始めた。
7月には牛馬に病気がはやり、多くの農耕用の牛馬が死んだ。
その結果福岡藩では42万6千石のうち収穫できたのは、わずかに4万3千石余り。
福岡藩の全人口32万人のうち6万6千人が餓死した。横手でもほとんどの子どもは餓死したといわれている。
享保の飢饉で亡くなった人たちを悼む地蔵さんは、福岡市のあちこちに「飢人地蔵」として数多く祀られている。
元湯の入り口付近に祀られた「横手享保飢饉地蔵」
享保の飢饉での福岡藩の死者は通説では10万人以上が餓死したといわれているが資料では、
享保11年人口 | 320,215人 |
---|---|
享保19年人口 | 253,852人 |
人口減 | -66,363人 |
とあり、全人口の2割以上の約66,000人が死んだとみられる。
死者のほとんどは百姓で、武士の死者はゼロであった。
そして、福岡藩が幕府に報告した死者数は、たったの1,000人だけであった。
これは幕府から「政治が悪い」と責められるのを恐れたからであった。
享保の時代は8代将軍徳川吉宗は飢饉の際の救荒作物として米以外の穀物を奨励、
特にサツマイモの栽培を青木昆陽に命じて広く普及させた。
その結果、50年後の天明の飢饉では多くの人命を救うことになった。
享保の飢饉の際、横手では降り続く雨で那珂川があふれ8月10日夕刻、横手村は水浸しとなった。
その水で那珂川町今光の方から観音様が流れ着かれた。
村人は喜んで正法寺観音堂を建立、鄭重に祀った。
以後、観音様が流れ着いたとされる毎年8月10日は十日相撲を奉納し、
子どもの健康と厄祓いの祈願の行事として今日まで続いている。
正法寺の観音堂に祀られた観音様
今年(平成28年8月10日)に開催された十日相撲
横手3丁目6ー18に祀られている地蔵さんは昔は「いぼ切り地蔵」と呼ばれて、
いぼができたら地蔵様に詣り、供えてあるある石を借りていぼをこすると、いぼが治ると信じられていた。
治ったお礼に新しい石を自分の年の数だけ供える。石は那珂川から拾ってきた。
長い年月の間、いぼ切り石は積まれてうず高くなった。
言い伝えでは享保の飢饉の折、村を通りかかった一人の虚無僧が行き倒れてここで息絶えた。
村人は手厚く葬り地蔵様をまつった。
昭和のはじめ、その周囲から天保銭や寛永通宝などがたくさん掘り出されたということである。
昭和40年頃、町内居住の祈祷師古里優教師が地蔵講の求めで地蔵祈祷したとき、
いぼ切り地蔵の本尊は日切り地蔵であると説いた。以後、日切り地蔵と称した。
注目すべきは飢饉で多くの人々が餓死寸前の状態にある中で、
行き倒れの虚無僧を丁寧に葬って地蔵様を祀り、後々まで供養する横手の人々のやさしさであろう。
※虚無僧…
虚無僧は「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在である。
尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧とされており、多く小袖に袈裟を掛け、
深編笠をかぶり刀を帯した
※日切地蔵…
「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩
※この記事のイラストは横手三丁目の故清水俊英さんの作品です。
【参考資料】安部 隆典(1996)『横手宝満宮の石碑と横手春秋』
故清水俊英さんの資料
このページに掲載している記事は「みなみ情報発信隊」隊員が取材し、作成したものです。
掲載記事に関する問い合わせやご意見はこちらへ。
メール・ファクスの場合は、確認のため住所、氏名、電話番号をお書きください。
土曜日、日曜日、年末年始はメールへの返信が遅れる場合があります。