宮竹校区には、江戸時代の風習が代々受け継がれている地区がありました。
内容を紹介する前に!!
平成28年は“申年”でしたね。この種の石碑を庚申塔といい、「猿田彦大神」「庚申尊天」といった文字が書かれた“文字塔”と、青面金剛という金剛童子と三猿(見ざる聞かざる言わざる)や二羽の鶏を彫った“刻像塔”があります。
宮竹校区内にあるのは4基で、全て「猿田彦大神」の文字塔。校区内の4基のうち3基が天保7年(1836年 申年)、江戸時代に建立されたものです。南区で年号が確認されている中では、大橋の塩原3丁目にある地禄神社境内のものが一番古く、正徳元年(1711年)建立です。福岡市教育委員会の調べ(1999年)では、庚申塔は福岡市内に505基もあり、そのうち猿田彦系は192基です。
庚申塔は、室町時代に始まり、江戸時代に大流行。明治新政府により迷信とされ、撤去や神社への移転が進みました。
猿田彦は、神様の道案内役として日本の神話に登場しています。豊作祈願の神、厄除けの神、道祖神などとして祭られていました。
庚申塔の庚申(こうしん、かのえさる)とは、十干十二支のいわゆる干支にいう「かのえさる」のこと。還暦が60年を1周りとするように、60日ごとに巡ってくる日が庚申の日です。
庚申塔は、古代中国の思想である道教に基づくものといわれています。人間の体には三尸虫といって3匹の虫がいて、これが庚申の夜に体を抜け出して天に上り、その宿主の60日間の悪事を天帝に報告することで寿命が短くなるという教えがあり、それを防ぐため一晩中寝ないで夜明かしをすることを庚申待ちといいました。悪事をしないようとせずに、虫を出さないようにしようというところがなんとも面白いですね。
庚申信仰と猿田彦信仰は、もともと別のものでしたが、江戸時代に、申と猿つながりで、信仰の習合が進んだといわれています。神道系の「猿田彦大神」、仏教系の「庚申尊天」という説明もなされるようです。
宮竹校区内の「猿田彦大神」4基のうち、3基が五十川地区にあります。調べていくうちに、宮竹公民館の山根館長より、「五十川地区の3基は、それぞれ上組・中組・下組にあり、祭りが行われていましたが、現在では、下組のみ『お庚申様祭り』が受け継がれている」という興味深い話を伺いました。
山根館長の紹介で、今回の当番である下組の内野さん宅を訪問しました。
平成28年10月1日「おこうしんさま」祭りの当日です。本来、庚申日は平成28年10月5日ですが、集まられる方々の仕事の関係で庚申日に近い土日で実施されているとのことでした。
19時~始まる前に以下の所作を行いました。
写真のように鯛・お神酒・茶菓子をお供えしてあります。
以前は、七色のお菓子をお供えしていたそうです。七色の意味については、今となってはわからないとのこと。
この掛け軸にある猿田彦。正面からで分かりにくいですが、よく見ると鼻が長くみえます。猿田彦は、天狗の原形ともいう説もあり、その風貌は、鼻の長さは七咫(手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さを咫という)、背の長さは七尺という姿であった、とまさに天狗をイメージさせるものですね。
代々受け継がれている、御庚申様料理献立書(写真下) がありました。
昔は、家長が集まり食事をしながら夜通し世間話や農事の話について談話をしていました。
現在は夫婦で集まり、24時におひらきになっているそうです。
1年で初めの庚申日(初庚申大祭 平成29年は2月2日)には、皆さんで早良区藤崎にある猿田彦神社にお参りに行かれるとのこと。災難を祓い、福を授けるという猿面を自宅に持ち帰り、玄関先に飾ります。取材する私もどんなところか行ってきました。
初庚申大祭の様子
想像以上に行列が!
猿田彦神社に
6時10分に着いて本殿に行くまで2時間程度並びました。
テレビ局も中継していました。
1年で最後の庚申日には、旅行や食事会を実施。
しめ縄も自分たちで作って若い世帯に伝授しているとのことでした。
農作物の豊作を祈願したり、厄払いのためについた御餅に厄年の数だけ1円玉をお供えするといった風習が五十川地区のすべての組でほんの数年前まで行われていたそうです。
内野さんは20代の頃からこのような「お庚申様」祭りに参加し、年長者の人々と交流を深めていきました。
取材を通じ、現在は、畑が減り農業に携わっている方も激減している今日、時代とともにかたちはかわりつつも、「縦・横のつながり」を大切に次の世代へ伝えている「お庚申様」祭りを続けていってほしいと思いました。
南区民俗文化財保存会(1992) 『南区ふるさと』 福岡高速印刷社
このページに掲載している記事は「みなみ情報発信隊」隊員が取材し、作成したものです。
(メール・ファックスの場合は、確認のため住所、氏名、電話番号をお書きください。
土日、年末年始はメールへの返信が遅れる場合があります)