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更新日: 2020年11月9日

空想のふくおか|福岡市博物館市史編さん室

この連載では、かつて構想された、さまざまな都市計画などを紹介していきます。


天正15(1587)年の空想 「幻の博多城」


皆さんは、1582年の本能寺の変後、豊臣秀吉に仕え、さまざまな戦に参加した糟屋(加須屋)武則という人物をご存知でしょうか。彼は、福島正則や加藤清正と共に「賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍(やり)」に数えられた人物で、秀吉の天下統一事業として1586年から翌年にかけて行われた九州平定にも従軍していました。


糟屋は、薩摩国の戦国大名・島津義久が秀吉に降伏した直後に、鹿児島にいる秀吉から朱印状で命令を受けました。それは「手が空いたら、博多へ移動し、城の普請(工事)を行え」というものでした(「新編会津風土記」巻三)。


当時の博多は、戦乱で荒廃していました。朱印状には「高麗国へ人数(軍隊)を差し向けて成敗する」とあります。目的は、博多のまちを復興させて朝鮮出兵のための拠点とすることだったと考えられます。博多は、古くから貿易港として栄え、対外的な窓口となっていました。大量の兵器や物資を集積するのに便利だったこともあり、城を造り、それを軸に博多のまちを復興させ狙いだったのでしょう。結局、「太閤(たいこう)町割り」によって博多は復興を遂げ、城は築かれることはありませんでした。


秀吉は、後に名護屋城(佐賀県唐津市)を築城します。なぜ出兵の拠点が博多から名護屋に変更されたのか、具体的な記録は残っていませんが、朝鮮半島により近い位置にあること、リアス式の入り組んだ海岸で多くの船を止めることができる地形だったことなどが、主な理由だと考えられています。

小さな漁村だった名護屋は、全国から集まった諸大名や兵士・商人でにぎわい、当時は大阪に次ぐ第二の都市といわれるほど大きな城下町として繁栄しました。

名護屋城は、五重の天守を備えた立派な城でした。このような立派な城が博多に築かれていたかもしれないと考えると、なんだかワクワクしてきませんか。

佐賀県重要文化財「肥前名護屋城図屏風」(部分、佐賀県立名護屋城博物館蔵)

名護屋城は、南北が450メートル、東西は600メートル、総面積は17万平方メートルを超える規模と推測され、高さ15メートルに及ぶ石垣で囲まれた壮麗な城だった。本丸からは金箔(ぱく)の瓦も出土している。本丸を中心に渦巻き状に二の丸、三の丸、東出丸、遊撃丸、弾正丸などが配置され、それぞれを経由しないと本丸までたどり着けない造りになっていた。秀吉の死後、廃城となり、現在は石垣だけが残る。


(福岡市博物館市史編さん室 八嶋義之))

(福岡市政だより令和2年11月15日号7面掲載)


昭和38(1963)年の空想 「モノレールが走る?」


昭和38年1月1日号の「市政だより」は、読者をあっと驚かせるイラストが表紙を飾りました。そこには「10年後のふくおか」と題した昭和48年の市の未来予想図が描かれていたのです。

昭和38年1月1日号の「市政だより」は、読者をあっと驚かせるイラストが表紙を飾りました。

この図で最も注目したいのは、モノレールの環状線です。西新を出た車両は南部の住宅地を経て都心部の「新博多駅」や天神を通過した後、大濠公園の東側から南下し、最終的に「油山観光センター」へと向かいます。

他にも、当時乗り入れていなかった新幹線が博多まで延伸していたり、西鉄宮地岳線(現貝塚線)の終点が天神付近になっていたり、構想とはいえ交通網の発達には驚かされます。また、団地造成による住宅不足の解消や、上下水道の整備、海岸の埋め立てと工場誘致の実現など、住みよい都市となっている未来が具体的に描かれています。

この図は当時の市の総合計画を基にしながら、交通等については「十年後の夢」を取り入れていると付記されています。全てを実現しようと考えていたわけではないようですが、高度成長期らしい夢のある当時の雰囲気を感じ取ることができます。

(福岡市博物館市史編さん室 宮野弘樹)

(福岡市政だより令和2年8月15日号6面掲載)


昭和24(1949)年の空想 「西に運河があった?」


昭和24(1949)年、福岡の未来を語る一冊の本が刊行されました。タイトルは、『大福岡市の構想に就いて』。著者は、当時運輸省博多港工事事務所長を務めていた太田尾廣治。発行者は福岡商工会議所です。太田尾は、昭和22年に所長として着任し福岡の港湾整備に関わった経験から、海に開かれた市の強みを生かすべく本書を執筆しました。

この本には、図面がいくつか収録されています。その中から、博多湾全体を展望した「大福岡市開発計画図」を見てみましょう。この図面は、昭和23年4月に博多港工事事務所が作成したもので、当時は市域ではなかった志賀島や海の中道から、糸島半島の西側までを取り込む構想だったようです。

「大福岡市開発計画図」の画像。青い長円部分が、当時構想されていた「糸島運河」

青い長円部分が、当時構想されていた「糸島運河」



この中で、特に注目すべきは「糸島運河」です。今津湾から加布里まで、瑞梅寺川、雷山川、泉川を東西につなぐ運河を造り、周辺を「糸島工場地帯」として発展させるという構想です。当時、今津は外国資本や技術を導入する自由貿易港としての役割を期待されていました。

さらに、今津湾東側の能古島も運河地帯の一部に含まれていました。能古島は景勝地であり、歓楽地として外国人旅客を受け入れる窓口となっています。その能古島へは、姪浜から大きな吊り橋を建設。今津と博多港をつなぐ航路も確保しています。

太田尾は、河川の利用計画こそが港湾開発の要であるとしています。糸島運河の構想は、それを具現化しようとしたものだったと言えるでしょう。

(福岡市博物館市史編さん室 鮓本高志)

(福岡市政だより令和2年9月15日号7面掲載)


昭和24(1949)年の空想 「竹下駅周辺に官庁街があった?」


前回に引き続き、太田尾廣治著『大福岡市の構想に就いて』(昭和24年)から、「福岡市中心部構想図」を見てみましょう。図には、東は名島川(多々良川)、南は竹下駅周辺、西は大濠公園までの区域が描かれています。

太田尾廣治著『大福岡市の構想に就いて』(昭和24年)から「福岡市中心部構想図」の画像

名島川の下流付近から鉄道路線に沿って、石堂川(御笠川)まで「博多運河」を造り、その周辺を重工業地帯としています。運河はさらに那珂川沿いの中央市場と歓楽地帯まで延び、さらにその中上流の軽工業地帯へとつながっています。石堂川と那珂川の下流域は商業地帯です。これらの地区を運河によって直接つなぎ、海に面した都市の強みを引き出そうとしています。

運河に加え、鉄道網と幹線道路の整備によってさらに交通の利便性を図ります。黒い色がこの時点で存在していた線路で、赤い色が計画線、×印は廃止予定の線路です。

博多駅は現在地に近い場所に移設され、港へまっすぐ伸びる幹線道路は現在の大博通りをイメージさせます。「福岡駅」の南側には、飛行場の西側から那珂川沿いの竹下駅周辺まで、県庁を中心に大きな公園を有する官庁街をつくっています。

線路は港の隅々まで延びています。港湾地域を横断する鉄道路線計画は、湾岸部に高架線を建設して、既設の国鉄筑肥線や貨物鉄道と接続させ環状線を形成するなど、壮大なものでした。

太田尾は巻末で、この計画が「一個人の単なる構想」として取り扱われることを希望しています。しかし、港湾開発や博多駅の移転など、太田尾の構想はその後の福岡市の都市計画に少なからず影響を与えたようです。

(福岡市博物館市史編さん室 鮓本高志)

(福岡市政だより令和2年10月15日号7面掲載)


福岡市では、本市発展の指針とするため、また貴重な歴史資料の継承を目指して、福岡市史の編さん事業に着手し、平成22年から『新修 福岡市史』を刊行しています。

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