このページは、中央区の区民ボランティア「ちゅうおうPRサポーター(平成24年3月末をもって事業終了)」が取材を行い作成した記事をもとに掲載しています。
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修猷館跡に建つ石碑
福岡藩7代藩主・黒田治之(はるゆき)の遺命により、天明4年(1784年)藩校が開校されることになりました。まず始めに、東学問所修猷館が開校されました。場所は福岡城「上の橋」の前。現在、三井住友海上福岡赤坂ビルの西側に「修猷館跡地」の石碑があります。
初代館長には、藩儒の筆頭名門であった竹田定良が選ばれました。藩士の子弟は、11才になると入学が義務づけられました。修猷館では主に朱子学のほか、国学も講じられ、和文や和歌も創作。寛政10年(1798年)には、武しゃ(武道場)を設け武術も奨励しました。
明治4年(1871年)の廃藩置県により、藩校修猷館は廃校になりましたが、同18年(1885年)黒田家の援助もあって再興されました。その後、幾多の変遷を経て、明治33年(1900年)現在地の早良区西新に移転しました。現在は福岡県立修猷館高等学校となり、優秀な人材を輩出しています。
館名「修猷」の由来についてですが、中国最古の歴史書「尚書」の『踐脩厥猷』(厥(そ)の猷(みち)を踐(ふ)み脩(おさ)む)が出典です。なお、修猷館が開校した天明4年、唐人町には西学問所甘棠館(かんとうかん)が開校しています。