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更新日: 2017年12月11日

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【洲崎のお台場石垣】

幕末福岡藩の海防とお台場


須崎公園の那の津通り側に残る石垣の画像

須崎公園の那の津通り側に残る石垣



 嘉永6年(1853年)6月3日、司令長官ペリー率いるアメリカ極東艦隊の艦船4隻が浦賀に来航し、日本に開港を要求しました。日本国内は開国派と攘夷派に分かれ、てんやわんやの大騒ぎとなりましたが、徳川幕府は安政5年(1858年)、勅許(天皇の許可)を待たずにアメリカと修好通称条約を締結しました。

 幕府の大老井伊直弼が攘夷派の水戸浪士らから暗殺されたのは万延元年(1860年)のこと。文久2年(1862年)には薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件が発生し、その後、イギリス艦隊は薩摩藩砲台と戦火を交え薩摩藩は惨敗しました。

 また、長州藩では文久3年(1863年)に下関沖を航行中のアメリカ船に向けて発砲し、翌元治元年(1864年)にイギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦船が長州藩砲台を攻撃し、砲台は壊滅状態となりました。

 このような世情に鑑みて、福岡藩は外国勢力から筑前の国を守るため、長崎海軍伝習に28名を参加させ、西洋の近代的な軍事技術の習得に努めています。

 また、文久元年(1861年)に蒸気船日華丸、翌文久2年(1862年)に大鵬丸、慶応元年(1865年)には環瀛丸(かんえいまる)と蒼隼丸(そうしゅんまる)を購入し、海軍力の充実を図りました。

 海岸線の防衛のためには、お台場(砲台)を築きました。那珂川河口付近の洲崎(すさき)砲台に石火矢(=大砲のこと)15挺、西公園下船溜まりの波奈(はな)砲台に10挺、ほかにも北九州の若松や芦屋、糸島の加布里にも砲台を築かせました。

 洲崎砲台の石垣は、現在、須崎公園の那の津通り側にその一部が残っています。当時の海岸線が分かる貴重な史跡でしょう。福岡藩は幸いにも、外敵と直接戦火を交えることはありませんでした。