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更新日: 2016年10月1日

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【圓應寺】

黒田官兵衛の妻「光姫」が開基した圓應寺

 照福山顕光院 圓應寺(円応寺)(しょうふくざんけんこういんえんのうじ) は、黒田官兵衛孝高(如水)の妻であり、黒田長政の母、光姫が開基した、浄土宗の黒田家菩提寺です。

 多くの武将が側室を持つなか、官兵衛は生涯ただひとり光姫と添い遂げました。天才軍師と名高い黒田官兵衛にたった一人の妻として愛された光姫は熱心な浄土宗信者であったことも知られています。

 光姫は、寛永四年(1627)八月二六日、福岡城内で死去(享年七五歳)しました。法名は「照福院殿然誉浩栄大尼公」。福岡圓應寺は、山号に「照福山」を追号し、正式に「照福山顕光院圓應寺」と称するようになりました。

 圓應寺では、毎年 光姫の命日である8月26日に『光姫忌』として黒田家所縁の姫君をご供養する法要を行っています。

黒田官兵衛の妻「光姫」が開基した黒田家菩提寺「圓應寺」

黒田官兵衛の妻「光姫」が眠る圓應寺

 1945年(昭和20年)6月19日に起きた福岡大空襲では、圓應寺のある簀子校区は多大な被害を受けました。圓應寺も例外ではなく、多くの建物が焼失し,墓石までもがその熱で粉砕されました。

 福岡大空襲により崩れた光姫の墓石は、1980年(昭和55年)に再建立されました(写真)。題字は第25 - 28代福岡市長進藤一馬の書です。

 寺には福岡大空襲の簀子地区戦災者も数多く眠っています。そのほか、黒田二十四騎の一人である桐山丹波守(たんばのかみ)や家臣も多くまつられています。黒田節の作詞をした国学者二川相近(ふたがわすけちか)、更には国士無双といわれた玄洋社 頭山満(とうやまみつる)翁の墓もあります。

 官兵衛の妻「光」の読み方は現在「てる」と呼ばれていますが,平成25年8月,寺が所蔵する古文書に「ミツ」というルビが書かれたものが見つかりました。本当の呼び方はどちらだったのでしょうか。

黒田官兵衛孝高(如水)の正室光姫の墓石

光姫の墓石