このページは、中央区の区民ボランティア「ちゅうおうPRサポーター(平成24年3月末をもって事業終了)」が取材を行い作成した記事をもとに掲載しています。
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【大相撲を九州に誘致した木曽重義】
大相撲九州場所誘致へ燃えた男
初冬11月は大相撲九州場所。各部屋が陣取る神社仏閣には色鮮やかなノボリがはためき、福博の街は華やぎを添えて浮き立っています。
第35代横綱・双葉山を輩出し、相撲の神様と言われた吉田司家(よしだつかさけ・大相撲行司の司家)のある九州は「相撲どころ」と称され、熱烈なファンに支えられて各地で地方巡業が繰り広げられていました。
一地方巡業地に甘んじていた福岡に準本場所を誘致、そして本場所昇格実現・・・。その重要な節目に、地元の熱い期待を背に相撲協会と粘り強く折衝を重ね、九州場所誕生の功労者と語り継がれている一相撲好事家の存在があるのをご存知でしょうか。
福岡の実業家・木曽重義氏。石炭産業で成功し、中央との幅広い人脈を駆使して本場所昇格に貢献、半世紀を経て今日の隆盛に導いてくれたのです。
現在、天神のソラリアプラザビルがある場所に福岡スポーツセンターが建設され、こけら落としとして準本場所が開催されたのは昭和30年。2年後の本場所昇格を願い協会を説得したのは、次の一言であったと伝えられています。
「協会は事あるごとに『相撲は国技』と言う。国技ならば九州人も身近に真剣勝負を見る権利があり、協会はその声に応える義務がある。」
木曽氏の正論に押されて協会も折れ、昇格が決定。そして昭和32年に初の九州本場所が開催され、伏兵の玉乃海が金色のまわしを締めて全勝優勝を飾り、九州のファンを魅了しました。
福岡スポーツセンターから九電記念体育館(薬院四丁目)へ、そして、福岡国際センター(博多区築港本町)へと会場は移り変わりましたが、福博の風物詩として定着、新たな発展の道を歩んでいます。
こよなく相撲を愛した木曽重義氏。昭和53年、ゆかりの九電記念体育館で行われた同氏の告別式には、その死を悼み、功績を偲ぶ協会関係者の沈痛な姿がありました。
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