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更新日: 2018年8月10日

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【西中島橋と桝形門】


福岡と博多をつなぐ西中島橋と桝形門


現在の西中島橋の画像

現在の西中島橋


 慶長12年(1607年)、福岡藩初代藩主・黒田長政による福岡城築城によって、中世以来の交易都市・博多と、黒田家お連れ衆の武士や町人が移り住んだ新興都市・福岡が、双子都市としての歴史を歩み始めました。

 長政は中洲の東西に2つの中島橋を架け、博多と福岡を結びましたが、西中島橋の福岡側たもとには桝形門と呼ばれる堅固な門が設けられていました。

 桝形門は、侵入してきた敵を阻止する軍事的防衛の機能を持ち、高さ10メートルの石垣と楼門で作られていました。通行人も検問されるなど、博多と福岡の交流は厳しく制限されていました。

 桝形門の南北に、城下町・福岡へと通じる門がありました。唐津街道の一部で城下町のメインストリートだった「六丁筋」に通じる北門を出ると橋口町、福岡城大手門に通じる南門を出ると天神町でした。

 ちなみに、北門と南門の前の空き地が「桝」の形になっていることから桝形門と名付けられました。また、当時の西中島橋は、敵に攻められた時に簡単に壊せるよう、木造のお粗末な構造でした。


橋の真ん中の画像

橋の真ん中で座って川を眺めることができます


 明治以後、廃藩置県となり、無用の長物となってしまった桝形門は、博多と福岡の融和の妨げとなりました。そこで、明治21年に山中立木(たてき)福岡区長(後の初代福岡市長)が全面撤去を決断。翌年に全ての石垣は壊されました。
 
 ところで、博多区にある聖福寺の123世住職で、画家としても有名な仙厓(せんがい)和尚が書いた掛け軸には、博多と福岡いう2つの文化に関わってきた西中島橋と桝形門の姿が描かれています。

 平成15年に新設された橋の真ん中にはベンチがあり、仙厓(せんがい)和尚の絵がレリーフとして埋め込まれています。