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更新日: 2018年8月14日

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【広田弘毅】


福岡県出身者で初めての総理大臣・広田弘毅


広田弘毅銅像の画像

市美術館の敷地内に建つ広田弘毅銅像


 広田弘毅(こうき)は、福岡県出身者で初めて総理大臣になった人物です。天神三丁目の細い路地に「廣田弘毅先生生誕之地」と書かれた石碑が建っていますが、弘毅はこの地で、働き者の石工・広田徳平とタケの長男として生まれました。この石碑は、出光石油の創業者・出光佐三(さぞう)氏の揮毫によるものです。

 広田弘毅は大名小学校、中学修猷館、第一高等学校、東京大学へと進み、外務省に入省します。アクロス福岡の前に水鏡天満宮がありますが、南側の鳥居に掲げられた「天満宮」の文字は、丈太郎(弘毅の幼名)が書いたものです。

 外務省に入省した広田弘毅は駐ソ連大使や外務大臣を経て、昭和11年3月、2.26事件の後を受ける形で総理大臣に就任します。しかし、軍部の横暴に抗しきれず、翌12年1月23日に総辞職します。ちなみに文化勲章は、彼が総理在任中に創設したものです。


墓碑の画像

聖福寺境内に建つ墓碑


 昭和12年6月に発足した第1次近衛文麿内閣で、再び外務大臣に就任。同年7月7日、廬溝橋での一発の銃声により日中戦争となり、その後、昭和16年に第二次世界大戦に突入します。終戦後、極東国際軍事裁判で広田弘毅はA級戦犯として起訴されます。平和外交を希求してやまなかった広田弘毅ですが、一切自己弁明をすることなく、昭和23年12月23日、巣鴨刑場の露と消えたのです。

 福岡市美術館の南側にある護国神社大鳥居前駐車場の横には、広田弘毅総理大臣の堂々たる銅像が建っています。また、墓碑は博多区の聖福寺(しょうふくじ)の境内にあります。