このページは、中央区の区民ボランティア「ちゅうおうPRサポーター(平成24年3月末をもって事業終了)」が取材を行い作成した記事をもとに掲載しています。随時記事の追加や修正を行っていますが、記載内容の誤り等、何かお気づきの点がございましたらページ下部の問い合わせ先までお知らせください。
なお、本記事を無断で転載・引用等することはご遠慮ください。
慶長9年(1604年)、長誉恵順和尚を開山の僧とし、永長山昌林寺と号したのが始まりです。徳川家康の養女で、福岡藩初代藩主・黒田長政の夫人である栄姫が江戸で没され、遺髪を埋葬して菩提所となりました。山号も栄姫の法名である大涼院にちなんで大涼山と改められ、後に昌林寺も少林寺となりました。
境内には栄姫の墓である五輪塔のほか、長政の二女の墓である笠付きの角柱塔、福岡藩3代藩主・黒田光之の子である黒田綱之の墓塔があります。また、山門を入って左側に月形家の墓石があり、幕末の福岡藩士・月形洗蔵もここに葬られています。なお、黒田綱之は光之の嫡男でありながら、突如として廃嫡され、屋形原(現在の南区)に幽閉されたといいます。
綱之は死に臨み、「自分の願いは叶えられなかったが、私の墓に真心を込めて祈るならば、願い事を叶えてやる」と言い残して没したので、多くの人が綱之の墓に参詣して願い事をしました。その際に人々は墓石を削り取って、舐めたり煎じたりしたため、現在の墓石の高さは元の高さの4分の1程度になっているといいます。
栄姫の墓
長政二女の墓
黒田綱之の墓