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光雲神社境内にある水牛の兜像
福岡藩初代藩主・黒田長政が愛用した水牛の兜は、もともと浦野半左衛門勝元という人が持ち主で、勝元が長政に仕えるときに献上したものと伝えられています。長政はこの兜がたいそう気に入り、よく着用したようです。長政は浦野家に同じものを造り与えました。
ちなみに浦野家は、幕末の女流作家で高杉晋作など勤王派の志士たちと付き合いがあった野村望東尼(ぼうとうに)の実家です。望東尼が娘時代、浦野家が火災になったときに、家に帰り着いた望東尼が最初に尋ねたのが「家宝の水牛の兜は無事か?」ということだったので、浦野の娘はしっかり者だという評判になったようです。それで福岡藩は再度、兜の模造品を造って浦野家に与えました。
さて、水牛の兜という名前ですが、実は本物の水牛の角ではありません。本物の角であれば、重くて戦場では使い物になりません。桐の木で形を作り、うるしを磨き上げたもののようです。この兜は国の重要文化財に指定されていて、現在、福岡市博物館に所蔵されています。西公園の光雲(てるも)神社の境内には、水牛の兜の像があります。