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更新日: 2016年10月1日

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【今泉天神通りの3か寺】


盛福寺、法泉寺、安養院の3か寺が立ち並びます


国体道路沿いの若宮神社の横から薬院方面へと延びる「今泉天神通り」には、3つの寺が立ち並んでいます。

最も北側にあるのが盛福寺(せいふくじ)。盛福寺の仏殿には、福岡藩重臣の木付源兵衛の位牌があります。源兵衛は武勇に優れ、島原の乱ではその働きが認められて福岡藩2代藩主・黒田忠之から加禄され、黒田姓を賜りました。

後に浪人となりましたが、しばらくして忠之から復帰の命が下り、短刀を賜りました。源兵衛はこれをどう解釈したか、正保3年(1646年)にその短刀で切腹しました。忠之は大いに驚き、丁重に埋葬して盛福寺を建立し、源兵衛を慰霊したといわれています。

法泉寺(ほうせんじ)を開いたのは、日向(現在の宮崎県)の僧・宗巴といわれています。豊臣秀吉が天正15年(1587年)に行った島津征伐の際に、宗巴は黒田長政(後の福岡藩初代藩主)と知り合いになり、長政が筑前に入った後に寺領を賜りました。

境内には、樹齢200年余といわれる大きなクスの木があります。

最も南側にあるのが安養院(あんよういん)です。地史「筑前国続風土記」によると安養院という名前は、この寺を開いた朝鮮国出身の僧・心誉が、朝鮮で住んでいた場所に因むということです。

また、この寺には、黒田忠之が鷹狩りの帰りに立ち寄って休息した際に、接待に出た寺小姓を忠之が気に入り、小姓として差し出させようとしたが、住職の空誉(くうよ)上人が断ったことから空誉上人を釜ゆでにして、処刑したという話が伝わっています。

※空誉上人の処刑については諸説あります。「浄念寺」の紹介記事もご覧ください。


大きなクスノキがある法泉寺の境内の画像

大きなクスノキがある法泉寺の境内