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更新日: 2018年8月14日

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【母里太兵衛】


民謡「黒田節」のモデルになった母里太兵衛

旧母里太兵衛邸長屋門の画像

旧母里太兵衛邸長屋門


 母里太兵衛(ぼり たへえ)は黒田家の重臣で、黒田家家臣精鋭部隊である「黒田二十四騎」の一人です。福岡藩藩祖・黒田如水および初代藩主・黒田長政に従い、各戦陣にて功名をたてました。

 文禄5年(1596年)正月、長政の名代として尾張出身の戦国大名・福島正則邸に挨拶に行ったとき、正則より酒を勧められ、いったんは固辞するも強く勧められるので、やむを得ず大杯の酒を飲み干し、
名槍日本号を正則より頂戴しました。これが民謡「黒田節」で有名な物語です。この名槍日本号は、現在、福岡市博物館に所蔵されています。


母里太兵衛の銅像の画像

母里太兵衛の銅像


 さて、太兵衛の姓は「ぼり」か「もり」かということですが、もともと太兵衛は播磨国加古郡母里(ぼり)出身(現在の兵庫県)なので、母里(ぼり)姓を名乗っていました。しかし、慶長11年(1606年)に江戸城の石垣修理を命じられたとき、見事に修復工事を成し遂げ、将軍家から頂いた感謝状が「毛利」となっていたので、以後「毛利」姓を名乗ったといわれています。その「毛利」が訛って「もり」という呼び方もされるようになりましたが、ご子孫の方は「母里(ぼり)」姓を名乗っていらっしゃるそうです。

 太兵衛は直方の鷹取城1万8千石の城主に、その後嘉穂郡の大隈益富城城主になり、元和元年(1615年)、病のため60歳で没しました。墓所は福岡県大隈町の麟翁寺(りんのうじ)にあります。

 母里太兵衛子孫の屋敷は天神町(現在の福岡天神センタービル)にありました。その屋敷の長屋門が福岡城内(平和台競技場入り口前)に移転保存されています。また、太兵衛の銅像が、
西公園光雲(てるも)神社境内に建っています。