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【野村望東尼】
勤王の志士たちを支えた幕末の母
 野村望東尼が住んだ平尾山荘
「ひとすぢに あかき道ゆく 中やどに かしてうれしき やまのあれ庵(いほ)」(『向陵集』)
平尾山荘に住んだことで知られる野村望東尼(のむらぼうとうに)は、文化3年(1806年)黒田家に仕える浦野重右衛門勝幸の三女・モトとして、現在の赤坂三丁目付近で生まれました。
美貌で知られたモトは、17歳のときに一度結婚するも離縁。24歳で再び野村新三郎貞貫(さだつら)のもとに後妻として嫁ぎます。
弘化2年(1845年)、長男の貞則に家督を譲り、夫婦は平尾山荘に移り住みました。2人は詩歌に造詣が深く、薬院の商家に生まれた歌人の大隈言道(ことみち)の門下に入り、平尾の自然に囲まれながら、歌を中心とした生活を楽しんでいました。
しかし、安政6年(1859年)、夫の貞貫が亡くなります。仏門に入ったモトはその名をもじり、「招月望東尼(しょうげつぼうとうに)」と号するようになります。
 野村望東尼の胸像
文久元年(1861年)に上京、翌年に帰福した後から勤王の志士たちを密かにかくまい、山荘を密会の場として提供するようになりました。高杉晋作も平尾山荘を訪れた一人です。
冒頭の歌は彼らを支えようとする望東尼の心境を詠んだものでした。
福岡藩の勤王派は次々と弾圧されてしまい、望東尼も真冬の慶応元年(1865年)11月に姫島に流されてしまいます。望東尼が60歳のときのことです。
ところが、翌年9月、高杉の命を受けた30人の志士たちにより、昼間にも関わらず、監視の目を盗んで劇的に脱出したのでした。
下関に着いた望東尼は慶応3年(1867年)4月、高杉の死を見取ると、山口を経て防府の三田尻に着き、同年11月6日、その地で62歳の生涯を終えました。王政復古が起こり、明治になったのはその翌月のことでした。
望東尼の慰霊を偲び、毎年11月6日には平尾山荘で望東尼祭が行われています。午前10時半から1時間、お坊様による読経が行われるほか、梅やぜんざいの販売もしています。
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