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歴史散歩

古代から現代へと脈々と続く、国際文化交流都市としての福岡・博多

古くから海外文化の玄関口。日本文化の形成にも貢献した2000年の歴史。

福岡の歴史は国際交流の歴史ともいえます。天然の良港を持ち、玄界灘をはさんで中国大陸や朝鮮半島と向き合う地理的条件。古くから対外交流の玄関口として、日本の歴史や文化の形成に大きな役割を果たしてきました。

紀元前4世紀頃には水稲耕作技術が伝わり、当時の遺跡として日本最古の二重環濠が発見された那珂遺跡や板付遺跡が残されています。さらに、西暦57年に中国から贈られたとされる金印が福岡市東部の志賀島で発見され、古代からの交流を裏付けています。

536年には政治・外交の拠点として「那津官家(なのつのみやけ)」が博多区比恵に置かれ、これが後の「大宰府(だざいふ)」となっていきました。また遣隋使・遣唐使の派遣も「那の津」と呼ばれた博多から出港し、外国からの賓客をもてなす「鴻臚館(こうろかん)」も設置されました。博多という名称が使われ始めたのもこの頃で、8世紀なかばの『続日本紀』に博多大津の名前が登場しています。

志賀島の写真元寇防塁跡の写真

海を駆けて活躍する博多の商人たち。中国からの禅宗文化も花開く。

承天寺の写真12世紀になると平清盛が日宋貿易のために「袖の湊(そでのみなと)」を築き、博多は中国との貿易の中心地となっていきます。中国からの文化が流入し、鎌倉時代には日本初の禅寺である聖福寺をはじめ、承天寺などが建立されて禅宗文化が花開いていくのです。

13世紀には2度にわたる蒙古の襲来を受けましたが、自然災害や疫病のため蒙古軍は撤退。15世紀からは大内氏の統治下、対明貿易で繁栄し、中世の日本三津のひとつに数えられました。有力な博多商人が輩出したのもこの頃です。

しかし戦国期には戦乱が続き、博多の町は焼け野原となって衰退しますが、1587年に九州を平定した豊臣秀吉が博多の町を再興。「太閤町割(たいこうまちわり)」と呼ばれる都市計画を実施して、現在の博多の原型を作りました。さらに博多を自由都市「楽市」に指定し、堺と並ぶ商都として発展していくのです。

福岡城趾の写真武士の町・福岡の誕生。全国でもめずらしい双子都市として発展。

中世までは商人の町・博多が中心でしたが、江戸時代になって武士の町・福岡が登場します。1600年の関ヶ原の戦いで功績を残した黒田如水・長政親子が、筑前52万石の当主として博多に入国。黒田氏は備前(岡山県)邑久郡福岡の出身だったことから、城の名を福岡城(別名:舞鶴城)としました。城下町・福岡の誕生であり、これ以降、那珂川から東は「博多」、西は「福岡」と呼ばれるようになります。商人の町・博多は伝統工芸や芸どころとして、城下町・福岡は武士の文化を伝える町として、福岡は双子都市として発展を続けていくことになるのです。

明治22年の市制施行時には、市名を福岡にするか博多にするかで紛糾し、最後は市議会の投票により「福岡市」が誕生しました。同年、国鉄の駅も開業しますが、こちらは「博多駅」の名称に落ち着きます。こうして市名は「福岡」、玄関口の駅名は「博多」という双子都市らしい名称になったのです。

大空襲からの復興で新しい街並みに。現代のアジアの国際交流都市をめざして。

赤煉瓦文化館の写真九州沖縄聯合第五回 福岡県共進会場之図(福岡市博物館所蔵)

明治期に入ってからの福岡は、熊本や長崎など他の九州地域から遅れをとっていたようですが、九州の中心都市として大きく前進したのが明治43年に開催された第13回九州沖縄八県共進会(国内博覧会)。その後も博覧会の開催や交通網の発達により、福岡は九州の中心都市として発展していきます。

しかし昭和20年6月19日、大空襲で大打撃を受け、町は一面の焼け野原となりました。戦後、新しい都市計画のもとに街並みが整備されて現在に至っています。

今の福岡市は、2000年の歴史を物語る史跡や文化財を残しつつ、活気ある新しい都市として発展を続けています。明るく飾り気のない気質。にぎやかな祭りの数々。芸どころとして知られ、伝統文化も息づいています。その一方で新しいものを積極的に取り入れ、音楽やファッションにも敏感です。何よりも古代からの歴史を受け継ぎ、アジアの国際都市をめざして飛躍をとげようとしているのです。

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