野間焼とは那珂郡野間村柳河内(現福岡市南区皿山)で作られていた日用陶器の総称です。安政二年(1855年)野間村柳河内に窯が築かれ、黒田藩の御用窯として陶工佐々木与三郎に作らせたのが始まりと言われています。 藩主黒田長薄(ながひろ)が復興した御用窯須恵焼が明治四年の廃藩置県で廃止された時、名工澤田舜山(さわたしゅんざん)が、一門と共に野間に移って来て窯を作り、野間焼の名声をあげました。 最盛期は戦時中の昭和12年ごろで、50軒ほどの集落のうち窯元が15,6軒あり、そこに働く職人が約60人いました。集落の住民のほとんどが陶器に関わる仕事をし、毎日のようにどこかの窯から煙が立ち上り、付近の農村とは異なる独特の風景がありました。 現在窯元は残っていませんが、岡本自治協議会会長さんと梶屋自治協議会副会長さんに当時のことを尋ねたところ「行平や土鍋、植木鉢の他にも練炭を置く台、射的の的、七輪の網やらいっぱい作って渡辺通りまで売りに行きよったよ」「うちはうなぎの産地やった熊本の川尻町のお店から、うな丼用のどんぶりの注文があってね。よう手伝いよったなあ」など懐かしそうに話してくださいました。
土にもこだわりを持ち、山から持ってきた土を水槽に入れて分離させ、天日干しにして練って使える土にしたものを使っていました。職人は全く同じものを100個作れるほどの技を持っているので、焼いた後の土の縮み方の違いを考慮し、土を練るときの水の加減などを調節して作っていました。戦時中は空襲警報が鳴ると窯入れ後に火を消さなければならず、せっかくの作品が商品にならなくなることもあったそうです。 西花畑公民館に当時の作品が展示されていますので紹介します。
【行平】 横に黒線、縦にイッチン(粘土と水を混ぜた液状のものを、絞り出しながら盛り上げて装飾する道具)で白線を引いた格子柄の絵付けをし、低い温度で焼かれた柔らかな肌触りの器です。亀の首のようにみえる握り手が特色です。
【駅売茶瓶】 博多に鉄道が開通した明治22年当時、皿山地区の鉄道茶瓶協会が作っていました。大正12年ごろに野間工業組合が設立され、門司鉄道管理局管内の指定商人となり、全九州の駅売土瓶を作り毎月3万個くらいを出荷していたといいます。当時の茶瓶は、再度回収して焼き直して再出荷していました。
【焙烙(ほうろく)】 お茶や豆をいるのに使用 されていました。
【火消壷(ひけしつぼ)】 まきの燃え殻を消すための壷で、火消し後には炭ができます。この壷でできた炭は火の付きがよく重宝されていました。
【かんな】 陶器を作るときに使う、削るための道具です。
【イッチン】 模様を絵付けする道具で、じょうごの形にした漆紙に真ちゅうのくちばしを付け、中に入れた泥しょう(粘土と水を混ぜた液状のもの)を押し出すようにして、高く盛り上げた線などを引いていました。
【土瓶1】 七隈から出る白色の土で作られ、新築祝いの引き出物として利用されていました。、新築にふさわしく、めでたい謡曲『高砂』の歌詞、「四海波・・・」が書かれている。
【土瓶2】 帆掛け船が描かれており、燃えるような淡黄色が特徴です。
【伊賀土瓶】 明治初期の作で、別名「薬師瓶」と言われています。
【羽釜(はがま)】 戦前の作品で、澤田製陶所出品の炊飯用の釜です。
【徳利】 澤田舜山作の酒器です。
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