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更新日: 2010年1月19日

【中山平次郎】


鴻臚館発見の立役者

 中山平次郎博士は、鴻臚館(こうろかん)が福岡城跡内にあったことを特定した人物です。


 明治4年(1871年)、中山博士は京都で生まれました。東京帝国大学を卒業後、ドイツやオーストリアに留学し、帰国後、明治39年に福岡医科大学(後の九州大学医学部)の教授として迎えられました。


 中山博士は病理学者でありながら、かねてより考古学に興味を持っていました。これまで鴻臚館(古くは筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれていた)の所在地は、博多部の官内町(現在の博多区中呉服町付近)というのが定説でしたが、万葉集の「筑紫館に至り 遙かに本郷を望み 悽愴みて作る歌」の4首からして、通説は誤っていると指摘しました。


 4首は「志賀島が見える場所」「波の音が聞こえる場所」「ひぐらしが鳴く場所」などといった条件に合う場所で詠まれたはずだが、官内町ではその条件に当てはまらないと考えたのです。


 中山博士は条件に合う場所を探し、その結論として「福岡城跡の位置より他にはない」と断定しています。


 福岡城跡は当時、歩兵二十四連隊営所で、一般人は立ち入り禁止でしたが、招魂祭の日だけは立ち入りが許されました。この時を利用して中山博士は営内に入り、かねてより目星をつけていた場所から奈良時代の瓦や陶器を掘り当て、自説に確信を持ちました。


 ただ、営内でスコップを持った怪しい奴がいるということで憲兵隊に留置されましたが、実兄で九大医学部教授の中山森彦氏が陸軍軍医少将だったので直ちに釈放されたというハプニングもあったとか・・・。


 その後、昭和24年に平和台野球場が建設されましたが、昭和62年の外野席改修工事の際に鴻臚館の遺跡が発見され、中山博士の予見通り、ここに鴻臚館が存在したことが確定しました。現在も発掘調査は続いています。


 中山博士は荒戸四番丁(現在の荒戸三丁目5番)に兄妹3人で暮らしていました。後に鴻臚館発見へとつながる功績を挙げた中山博士は昭和31年(1956年)、85歳で亡くなっています。

鴻臚館跡に建てられた展示館

鴻臚館跡に建てられた展示館



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