
天神地下街の8番街にある石積みの広場 | 南北に約600メートル続く天神地下街ですが、7番街から8番街までにかけての壁面だけが石垣をイメージしたものになっています。この場所は、石積みの広場と呼ばれています。
江戸時代、幅50メートルの肥前堀がこの場所を通って東西に延び、両岸には石垣が築かれていました。
福岡城築城の際に築かれた肥前堀には当初、南北の両岸に石垣は築かれていませんでしたが、大雨などで土手が崩れるといった被害が生じたため、文化8年(1811年)に石垣を築いたとの記録が残っています。
肥前堀という名称ですが、建設にあたって肥前の国、佐賀藩の支援を受けて築かれたことから、その名が付きました。しかし、なぜ肥前佐賀藩は支援をしたのでしょうか。 |
天下分け目の関ヶ原の戦いで、佐賀藩の鍋島氏は西軍の石田三成に味方をしていました。西軍敗北後、お家取り潰しの危機となった鍋島家は、隣国福岡藩の黒田如水に「何とかうまくやってくれないか」と、徳川家康へのお取りなしを願い出ました。
関ヶ原の戦いで東軍についた黒田家の活躍は、家康に高く評価されていたので、黒田如水の「見逃してくれないか」という口利きによって鍋島家は安泰となりました。この恩義に深く感謝した肥前佐賀藩が、堀の工事を引き受けたとされています。
明治になって、肥前堀では福岡県がレンコンの栽培を行っていたそうですが、明治43年、産業博覧会の九州沖縄8県連合共進会が開かれるのに合わせて、肥前堀は埋め立てられることとなりました。
ちなみに、現在の福岡市役所庁舎の南側半分は、肥前堀の上に立っています。 | 
壁面は石垣をイメージ |
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