鴻臚館(こうろかん)跡から福岡城二の丸跡に入る所に、東御門跡があります。昔、この東御門はお綱門と呼ばれていました(扇坂御門をお綱門とする説もある)。柱に触れただけで熱病に冒されたり、夜中にうなされたりするといわれたその門には、恐ろしくも哀れな話が語り伝えられています。
寛永の頃、福岡藩2代藩主・黒田忠之は参勤交代の帰りに大阪で遊び、采女(うねめ)という芸者を連れ帰りました。しかし、家老にいさめられて、お側役の浅野四郎左衛門に預けることに。
浅野にはお綱という妻と幼い2人の子どもがいましたが、采女に心を奪われた浅野は、妻子を顧みなくなってしまいました。簀子町の本宅に采女を住まわせ、お綱と子どもたちを箱崎の下屋敷に別居させて、始めはしていた月々の仕送りもだんだんとしなくなりました。
貧しい生活にやきもきしたお綱は「せめて娘の4歳のひな祭りには何か支度を」と本宅に下男を送ります。ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い返され、下男はお綱に申し訳ないと思い、箱崎松原で自害しました。
これを知って、お綱は狂乱します。2人の愛児を刺し殺し、なぎなたを携え浅野家に走りますが、夫は登城していて留守。逆に、屋敷にいた浪人の明石彦五郎に切りつけられてしまいました。それでもせめて一太刀と、お綱は髪を振り乱し、血に染まった体をなぎなたで支えながら、夫のいるお城へ。しかし、城門にたどり着くと同時に、門に手をかけたまま息絶えたといいます。
その門がお綱門と呼ばれ、後に、浅野の本宅跡に建てられた長宮院に移されました。当院は福岡大空襲で消失し、その跡地は現在、家庭裁判所になっています。
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